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金曜日の夜、ダイニングテーブルの上には、転居先の間取り図と転校手続きの書類が隙間なく並んでいた。春香は会社から届いたメールをもう一度開き、地方支社長就任の最終回答が月曜日の正午までであることを確かめた。
「家賃補助も増えるし、今より貯金できるようになる。高校だって、向こうのほうが選択肢が多いのよ」
春香は赤いペンで候補の学校に丸をつけた。四十歳で支社長を任されることは、簡単には巡ってこない機会だった。それでも、自分のためだけではないと考えることで、胸の奥にある期待を落ち着かせていた。
美月は向かいの椅子に座り、膝の上で指を組んでいた。何度か顔を上げたが、そのたびに春香は次の書類を差し出した。
「この学校なら駅から近いし、部活もあるみたい。あなたも新しい学校のほうが楽しみでしょう」
「あ……うん」
かすかな返事を、春香は同意として受け取った。「じゃあ、ここを第一候補にしよう」と書き込み、通販で届いた引っ越し箱を組み立て始める。ガムテープを引く音に驚いて、窓辺の寝床にいたモカが長い胴を起こした。
「大丈夫。モカもすぐ新しい家に慣れるから」
春香がそう言うと、美月は何かを飲み込むように唇を閉じた。四角く整っていく箱は、もう決まった未来を積み上げているように見えた。
その深夜、春香が寝室へ入ったあと、美月は通学鞄を抱えてリビングへ戻った。中から取り出したのは、担任に渡された地元高校の校内推薦願だった。提出期限は週明けの月曜日で、保護者署名の欄だけが白く残っていた。
紙の端を両手で持ち、破ろうとして、美月は力を抜いた。母に見せることも、捨てることもできなかった。
窓辺では、モカがクッションの上から美月を見ていた。美月はしゃがみ、寝床のクッションを少し持ち上げて、滑り止めマットとの間に願書を差し込んだ。
「ごめんね。ちょっとだけ隠して」
モカは紙に触れた美月の手を嗅いだあと、願書を覆うように丸くなった。美月はその背を一度撫で、明かりを消した。
土曜日になると、家の中にはさらに箱が増えた。春香が寝室の衣類を詰めていると、モカは箱から落ちた靴下をくわえ、短い脚で廊下を進んで元の寝室へ運び戻した。
「それは持っていくの」
春香は笑って靴下を拾い、また箱へ入れた。今度は畳んだ毛布が窓辺まで引きずられていた。モカは毛布の端に前足を載せ、渡さないという顔で春香を見上げた。
「新しい家にも窓はあるし、同じ寝床を置いてあげる。すぐ慣れるって」
それは美月にも向けた言葉だった。美月は部活動で使う道具を胸に抱えたまま、空いている箱の前に立っていた。
「それも詰める?」
「まだ、使うから」
「向こうでも続けられるところを探せばいいでしょう。手で持っていくより、箱に入れたほうが楽よ」
美月が答えないので、春香は今はまだ別れが惜しいだけなのだと思った。夕方には、明日の朝、モカの寝床も梱包すると告げた。モカは窓辺のクッションに腹をつけ、増えた箱をじっと見ていた。
日曜日の朝、春香はクッションと滑り止めマットを重ねたまま、浅い箱へ収めた。箱を廊下に移して別の荷物を取りに戻ると、背後で爪が床をこする音がした。
モカが箱に前足をかけていた。短い脚で何度も踏ん張り、クッションの端をくわえて引く。箱が傾き、寝床が半分ほど床へ落ちた。
「もう、モカ。元に戻しても、また片づけるんだから」
春香がクッションを持ち上げた瞬間、その下から一枚の紙が滑り出した。白い紙は床を走り、廊下の途中で止まった。
拾い上げると、美月の名前と地元高校の名があった。校内推薦願。提出期限は明日、月曜日。保護者署名の欄は空白だった。
春香は紙を手にしたまま、リビングの入口に立つ美月を見た。美月は部屋着の袖口を握り、目をそらした。
日曜日の午前、二人はダイニングテーブルを挟んで座った。モカは戻されたクッションの上ではなく、美月の足元に伏せていた。
「どうして隠したの」
責めないように尋ねたつもりだったが、自分の声が硬いことに春香は気づいた。美月はうつむいたまま答えない。
「向こうの学校にも部活はあるし、今より選べる高校は増えるのよ。家計だって楽になる。推薦をもらえるのはありがたいけど、先のことまで考えたら――」
「友達と離れたくない」
美月の言葉が、春香の説明を途切れさせた。
「今の部活を続けたい。みんなと同じ高校に行けるように、ずっと頑張ってきたから」
「でも、転校したって友達は――」
「お母さん、聞いてない」
美月は顔を上げた。目に涙がたまっていたが、声は思いのほか低かった。
「いつも二人のためって言うけど、私には一回も聞かなかった。嫌だって言ったら、お母さんの昇進を邪魔することになるでしょう。そうしたら、私だけここに置いていかれるか、お母さんにいらないって思われる気がした」
「そんなこと、思うはずないでしょう」
反射的に否定してから、春香は口を閉じた。思うはずがないことと、そう思わせないことは別だった。
金曜日の美月は何度も口を開きかけていた。そのたびに春香は、「楽しみでしょう」「続けられるでしょう」と、賛成以外の返事が入り込まない聞き方をした。沈黙を確かめもせず、自分に都合のいい答えとして数えていた。
テーブルの上には、春香が一人で選んだ学校と住居の資料がある。どれも美月のために調べたものだった。それでも、きれいに整えられた選択肢の中には、美月がここに残りたいという希望だけがなかった。
春香は推薦願を置き、両手を膝に戻した。
「私に、してほしくないことから教えて」
美月はすぐには答えなかった。春香は先を促さずに待った。窓辺へ戻ったモカが、クッションを前足で二度掻いてから伏せる音がした。
「転校を決めないでほしい。私が何も言わないからって、いいことにしないでほしい」
「分かった」
口にすると、月曜日の正午という期限が現実の重さを持った。赴任を強行すれば、昇進も新しい生活も予定どおり手に入る。延期を願えば、支社長の席はほかの誰かに渡るかもしれない。
春香は悔しさを覚えた。その感情を美月に見せれば、また娘は自分の希望を引っ込めるだろう。だから隠すのではなく、今は自分で引き受けるべきものとして、春香は息を整えた。
「この願書、出したい?」
「出したい」
今度の答えは曖昧ではなかった。
月曜日の朝、春香は推薦願の保護者欄に署名した。登校前の美月と並んで中学校へ行き、職員室で担任に手渡した。
「期限に間に合ってよかったです」
担任は書類を確認し、美月にうなずいた。美月は胸の前で鞄の肩紐を握りながら、「ありがとうございます」と頭を下げた。
校門を出る前に、美月が春香を振り返った。
「お母さん、会社は」
「これから話す。あなたが心配して賛成し直さなくていいように、私が決めたこととして話してくる」
春香はそう告げて出社した。自分の席に着くと、正午になる前に上司へ電話をかけた。
「単身赴任にはしません。それでは問題を先送りするだけなので、現職に残り、赴任を一年延期させてください」
電話の向こうで短い沈黙があった。上司は、延期を認めても支社長職を一年後まで確保することはできないと念を押した。
「承知しています」
答えた声は震えなかった。けれど電話を切ったあと、春香は机の下で拳を握った。欲しかった役職であり、そのために積み上げてきた年月があった。
夕方、今回は別の社員を支社長に決めたと連絡が来た。春香は画面の文面をしばらく見つめ、それから静かに閉じた。落胆は消えなかったが、その痛みを美月の責任にしないことだけは、自分で選べると思った。
翌週の土曜日の夕方、春香と美月は使わなくなった引っ越し箱を畳んだ。ガムテープを剥がすたび、箱は平らになり、部屋に少しずつ空間が戻った。
モカの寝床も元の窓辺に置いた。モカは匂いを確かめるように一周し、満足したらしく、クッションの中央で丸くなった。
「昇進を逃して、悔しくないわけじゃない」
春香は窓辺に腰を下ろして言った。美月も隣に座り、膝を抱えた。
「私も、自分の進学だけで、お母さんの来年まで決めたくない」
「じゃあ一年後のことは、そのときまた話そう。ただし、今度は反対から」
「反対から?」
「嫌なこと、失いたくないことを先に言うの。黙っているのは賛成に数えない」
美月は少し考えてから、うなずいた。
「お母さんも言ってね。仕事で諦めたくないこと」
「言う。あなたに決めてもらうためじゃなくて、一緒に考えるために」
一年後にどんな答えを出すのかは、まだ分からなかった。結論を急がなくても、反対を口にしただけで見捨てられないと分かることが、今は先だった。
モカは戻った寝床で鼻先を尾に埋めた。春香と美月は同じ窓辺に座り、暮れていく空を、答えを決めずに眺めていた。
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