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月初めの月曜日、開店三十分前。スタッフルームの壁に貼られた予約表を背に、統括マネージャーの黒田慎吾は一枚の資料を掲げた。
「今月から、全店で平均施術時間を一頭あたり十五分短縮する。人件費率を抑え、空いた枠に予約を増やす」
スタッフたちの視線が予約表へ動いた。すでに午前から閉店前まで犬の名前が並び、枠と枠の間には着替えや清掃に使う細い隙間しかない。
三十四歳の副店長、水原奈緒は資料を受け取った。技術の速さと処理件数なら、これまで誰にも負けていない。それが自分を店長の手前まで運んできたのだと思っていた。
ミーティングが終わると、黒田は奈緒だけを呼び止めた。
「この店で短縮目標を達成できれば、次の店長に推薦する。水原なら現場を回せると見ている」
奈緒は即座にうなずいた。黒田が帰ると、ドライと仕上げの手順を詰め、予約表に残っていたわずかな余裕を削った。
「準備は前の施術中に進めて。ドライが終わったら間を置かず仕上げに入る。今日から、まず十五分を意識しよう」
入社半年の佐伯結衣が、おずおずと手を挙げた。
「音が苦手な子や、怖がる子も同じ進め方ですか」
「例外を先に考えたら縮まらない。安全は守る。そのうえで時間内に収める」
言い切ると、奈緒は開店札を裏返した。遅延を出さないことが、自分の能力を証明する最も明確な方法だった。
午前十時過ぎ、ドライスペースには乾燥機の低い音が響いていた。台の上にいるのは、三歳のトイプードル、モコだった。普段は奈緒が担当し、落ち着きさえすれば素直に施術を受ける常連犬である。
短縮した手順どおり、奈緒は風量を一段上げた。モコの濡れた耳が揺れ、体が小刻みに震え始めた。やがて台の隅に伏せ、四本の足を腹の下へしまい込んだ。
「結衣、体を支えて。胸の下に手を入れて、そのまま乾かす」
結衣はモコの体に腕を添えたが、表情を曇らせた。
「呼吸が速いです。一度、止めたほうが」
奈緒は壁の時計を見た。次の予約まで残り二十分もない。ここで止めれば、後ろの枠がすべてずれる。
「止めたらもっと遅れる。強く押さえないで、逃げない程度に」
風が再び当たった瞬間、モコは身をよじった。後ろ足が台の縁を外れ、結衣の腕の中で宙に落ちかける。奈緒は反射的にモコを抱き留め、乾燥機のスイッチを切った。
音が消えたあとも、モコの胸は激しく上下していた。その速さを目の前にして、続けろとは言えなかった。
午前十時十五分、奈緒はモコをドライスペース奥の個室へ移した。床に近いマットへ下ろし、照明を落として水だけを置いた。誰も触れないよう、結衣には次の犬の準備を任せた。
モコは伏せたまま動かない。奈緒は少し離れた場所にしゃがみ、呼吸を数えた。壁の時計を見るたび、遅れが一分ずつ積み上がっていった。
五分。八分。十二分。何もしていない時間が、予約表を押しつぶしていくように感じられた。それでも、さっき台から外れた小さな足を思うと手を伸ばせなかった。
十時三十分になったとき、モコが鼻先を上げた。前足を出し、自分から立ち上がる。奈緒が手のひらを差し出すと、近づいて匂いを嗅いだ。
「十五分……」
弱い風量で乾燥を再開すると、モコは逃げなかった。爪切りでも足を引かず、仕上げまで中断せずに終えられた。全体の予定は遅れたが、暴れてやり直す作業は一つもなかった。
閉店後、奈緒は事務スペースでモコの施術記録を開いた。休止した時刻、呼吸の変化、立ち上がった時刻、再開後に要した時間を、これまでにない細かさで入力した。
隣で清掃記録をつけていた結衣が言った。
「前にも、途中で休ませた子は後半が早かった気がします。記録には、遅延としか書いていませんけど」
奈緒は手を止めた。過去半年分のカルテを呼び出し、ヒヤリハット報告と手直し記録を机に並べた。震えや逃避の記録がある犬を抜き出し、休憩を挟んだ場合と押し切った場合を分けていく。
数字は多くなかったが、同じ傾向が見えた。休ませた犬は、爪や耳のやり直しが少ない。軽い擦り傷も少なく、次回予約のキャンセル率も低かった。
「私たち、全部『遅れ』に入れてた」
奈緒が言うと、結衣はうなずいた。
「待ったから早く終わった部分は、どこにも残してませんでした」
余分だと思っていた時間が、安全と再来店につながっている。奈緒は集計欄を作り、数字を入れ直した。現場の感覚を言葉にするのは苦手でも、これなら黒田に示せると思った。
翌日の午後、営業の合間に黒田を事務スペースへ呼び、奈緒は資料を差し出した。
「臆病な犬には、十五分程度の休止を認めてください。休ませた犬のほうが、再作業と軽微な事故が少ない傾向があります」
黒田は表を順に見たが、すぐにはうなずかなかった。
「傾向だけで全店方針は変えられない。枠を十五分広げれば、その分だけ予約が減る。売上目標を下げる話になる」
「でも、昨日は落ちかけたんです。一律に急がせた結果です」
声が強くなり、奈緒は唇を結んだ。ここで方針を拒むことも、辞めると言うこともできる。だが、それでは十五分は奈緒一人の判断として消え、店には何も残らない。
奈緒は資料の余白に線を引いた。
「通常枠と、十五分の余白を含む枠に分けます。対象は震えや強い逃避、施術中断の記録がある犬だけ。四週間、この店で比較させてください。追加分は指名料の一部で補います」
黒田が顔を上げた。
「数字が出なければどうする」
「売上目標と安全記録、両方に私が責任を持ちます」
しばらく黙ったあと、黒田は条件を出した。失敗すれば店舗全体の評価を下げ、奈緒の昇格推薦も保留にする。それでもやるのかと問われ、奈緒はうなずいた。
試験開始までの三日間、奈緒はスタッフと手順を作った。通常枠は維持し、余白枠の対象は過去に震え、強い逃避、施術中断が記録された犬に限る。休止前後の呼吸、姿勢、再開後の所要時間を同じ書式で残すことにした。
「余白枠は、手を抜くための枠じゃない。反応を観察して、安全に再開するための時間です。待たなくてよければ、状態確認と記録に使う」
予約件数が減るのではないかという声には、対象犬だけを分け、通常枠を詰めないと約束した。結衣も記録用紙を手に取り、犬の変化を言葉にする項目を加えた。
受付カウンターで、奈緒はモコの飼い主、高橋美里に先日の出来事を説明した。追加料金が必要になることも隠さず伝えた。
「急がせて、次からここへ来られなくなるほうが困ります。モコが落ち着くまで待ってもらえるなら、試してください」
高橋の同意をきっかけに、必要な数の常連客が協力を申し出た。対象犬、料金、人員配置が決まり、余白枠の試験が始まった。
四週間後の月末、スタッフルームの机に集計表が並んだ。店舗全体の処理頭数は目標をわずかに下回った。一方で、施術のやり直しと軽微な事故、当日キャンセルはいずれも減り、余白枠を使った客の次回予約率は上がっていた。指名料で追加人件費の大半も補えていた。
黒田は数字を確認し、腕を組んだ。
「短縮目標を達成したとは言えない。店長昇格の審査は先送りにする」
奈緒の胸に、固いものが沈んだ。望んでいた言葉が遠ざかる。それでも目をそらさず、次の言葉を待った。
「ただし、売上の落ち込みを抑えながら、安全指標と再来店率を改善した点は認める。この店では余白枠を正式メニューにする。他店への展開も検討するから、記録は続けてくれ」
結衣が小さく息を吐き、スタッフたちの表情が緩んだ。奈緒は昇格を逃した悔しさを抱えたまま、集計表の安全記録欄を見た。十五分は、もう個人的な迷いや遅延ではなかった。
正式運用が決まった日の閉店後、奈緒は受付カウンターで翌月の予約表を開いた。モコの名前の後ろに、十五分の空欄を設定する。
「ここには、何を入力しておけばいいですか」
結衣が画面をのぞき込んだ。
「犬が落ち着くまで待つ。待たなくて済んだら、観察と記録に使う」
奈緒は空欄にカーソルを置いたまま続けた。
「何もしないように見える時間まで含めて、私たちの技術なんだと思う。その時間がなぜ必要か、お客さまや本部に説明するところまでが仕事」
結衣は予約表を見つめ、静かにうなずいた。奈緒は十五分を別の予約で埋めず、そのまま画面を閉じた。
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