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午前四時五十分、莉子は自室の床に並べた荷物を一つずつリュックへ収めた。自転車用の水筒、雨具、工具、財布。最後に折り畳んだ手描きの地図を食卓へ置き、その上に短い手紙を重ねた。
廊下の先では、母の沙耶が眠っていた。午後には転勤を伴う昇進面談があり、明日は転居先の学校で莉子の面接がある。どちらも、もう決まったこととして予定表に書き込まれていた。
玄関で靴を履くと、ルークが爪音を立てて追ってきた。灰色の眉を持ち上げ、散歩を待つように莉子を見上げる。
「今日は連れていけない。お母さんをお願い」
莉子はミニチュアシュナウザーの頭を撫で、午前五時、自転車を押して家を出た。食卓の手紙には、こう書かれていた。
「明日の面接で、行きたくない学校に行きたいと言う前に、自分で決めた場所まで行く」
地図の赤い線は運河に沿い、百キロ先の海まで続いていた。
午前七時、沙耶はルークが寝室の扉を引っかく音で目を覚ました。莉子の部屋は空で、自転車もなかった。食卓の地図と手紙を見つけた瞬間、眠気が消えた。
地図には十五キロごとの通過予定時刻が細かく記されていた。出発は五時。中学生が荷物を背負って走るなら、二時間で進めても四十キロほどだと沙耶は見積もった。
沙耶はすぐに警察へ電話した。県警の担当者に莉子の服装、自転車の色、予定経路、所持品を伝えると、経路上の警察署と交番へ情報を共有すると返答があった。
「お母さんは、これからどうされますか」
問いかけられ、沙耶は地図と鉄道路線図を見比べた。莉子の経路の約六十キロ地点に運河駅がある。快速なら、自転車より先に着ける。
「運河駅へ先回りします。着いたら、また連絡します」
ルークは莉子の部屋と玄関を落ち着きなく往復していた。莉子を見つけたとき、沙耶一人よりもルークがいたほうが警戒を解いてくれるかもしれない。沙耶は犬をキャリーに入れ、七時半に家を出た。
午前七時三十五分発の快速列車で、沙耶は膝の上に地図を広げた。車窓を流れる家並みの向こうに、細長い運河が近づいてくる。莉子が祖父母を訪ねるたびに立ち寄るパン屋と、その先の公共給水所に印を付けた。
長距離を走るなら、補給できる場所は避けにくい。沙耶は警察へ先回り先を報告し、運河駅前のレンタサイクル店へ自転車と犬用トレーラーを予約した。
それから、午後の面談を担当する上司の佐伯へ連絡を入れた。事情を説明しようとして、指が止まった。昇進面談に家庭の問題を持ち込めば、任せられない人間だと思われるのではないか。
「到着が遅れるかもしれません」
結局、それだけを送った。ほどなく佐伯から「理由と見込みを知らせてください」と返ってきたが、沙耶は画面を閉じた。
午前八時半、運河駅へ着いた。沙耶は借りた自転車に犬用トレーラーを取り付け、ルークを乗せると駅前のパン屋へ急いだ。
店主の安西は、莉子の写真を見るなり目を見開いた。
「十分くらい前に来たよ。パンと塩飴を買って、海はこの道でいいかって聞いてね。いつもの自転車だったから、祖父母さんのところから来たのかと思った」
店の椅子には、薄青いスカーフが残されていた。莉子が首の日焼けを防ぐために使っているものだった。
沙耶はスカーフを受け取り、通過時刻と進行方向を警察へ報告した。ルークに匂いを嗅がせると、犬は鼻を鳴らしたが、すぐに店先を歩き回った。
「莉子がどこへ行ったか、分かる?」
犬だけに答えを求めるわけにはいかない。沙耶は安西が示した運河沿いの道へ自転車を向け、まず給水所を目指した。
午前九時過ぎ、給水所の水場には新しいタイヤの跡が残っていた。濡れた舗装の端には、安西の店名が印刷されたパンの包み紙が落ちている。莉子がここを通ったことは間違いなかった。
だが、本線の自転車道には工事中の柵が置かれ、川側の迂回路を示す看板が立っていた。沙耶が地図を確認している間に、トレーラーから降ろしたルークがスカーフを嗅ぎ、反対側へ伸びる細道を引っ張った。
その先には草に埋もれかけた廃駅があった。沙耶は、莉子とルークが祖父母宅からここまで何度も散歩したと話していたことを思い出した。迂回すれば予定時刻に遅れると考えた莉子が、知っている廃線跡を選ぶ可能性は高い。
沙耶はルークをトレーラーへ戻し、細道へ入った。錆びたレールの跡に沿って自転車を走らせると、朝露を倒したばかりのタイヤ痕が草の間に続いていた。
やがて水音が大きくなった。雨後の運河は茶色く膨らみ、旧水門の狭い水路へ濁流を押し込んでいる。その手前で、紺色のリュックを背負った莉子が自転車を押していた。
「莉子!」
振り返った顔に驚きが走り、すぐに固い表情へ変わった。沙耶は震える手で警察へ発見場所を伝え、電話を切ると莉子の自転車をつかんだ。
「帰るよ。ここは通行止めでしょう」
旧水門の管理橋は一部の板が外れ、黄色い規制テープも切れて垂れていた。隙間の下で濁流が渦を巻いている。それでも莉子は、自転車を置いて橋を渡ろうとした。
「この先の道に出れば、海まで行ける」
「駄目。明日は面接があるの。今すぐ帰る」
沙耶が腕を取ると、莉子は振りほどいた。
「その面接に行きたいなんて、私、一度も言ってない」
「だからって、黙って百キロも走るのは違うでしょう。危ないことをしていい理由にはならない」
「言っても変わらないと思ったから。お母さん、昇進も転勤も断れないってずっと言ってた。だったら私も、面接を断れないし、転校に賛成するしかないと思った」
沙耶は言い返そうとして、口を閉じた。会社の内示が出てから、通勤時間や新居の家賃は何度も説明した。しかし莉子が今の学校を離れたいか、どこで暮らしたいかは、一度も尋ねていなかった。
「でも今は帰らないと。橋が危ないから」
「危ないからやめろって言えば、私だけ予定を捨てることになる。お母さんは何も変えないのに」
莉子が橋へ足をかけ、沙耶も腕を引こうと踏み出した。その横を抜けたルークが橋の直前まで進み、前脚を突っ張った。鼻先を板の隙間へ向けたまま、低く伏せて動かなくなる。
二人は同時に足を止めた。水音の中で、外れかけた板がぎしりと鳴った。
沙耶は莉子の腕から手を離した。
「渡らない。力ずくでも連れていかない。その代わり、互いに一つずつ予定を変えない?」
「どういうこと」
「私は今日の昇進面談を予定どおり受けるのをやめる。家庭の事情を話して、延期とオンライン参加を正式に頼む。莉子は海まで行く予定を変える。明日の面接には、自分の希望を話すために出る」
莉子は濁流を見つめた。やがて、ハンドルからゆっくり手を離した。
「行きたいふりをしなくていいなら、面接には行く。今の学校に残りたいって言う」
沙耶は佐伯へ電話した。莉子が家を出たこと、警察へ届けたこと、今は無事だが帰宅に時間がかかることを、途中で省かず話した。
「面談を延期していただけませんか。可能なら、後日オンラインで参加したいです」
佐伯は短い沈黙のあと、「事情を言葉にして正式に相談してください。調整します」と答えた。沙耶は申請の連絡を送り、警察にも二人の無事と、安全な経路で戻ることを報告した。
午前十一時、二人は壊れた橋を避けて堤防道へ出た。莉子の自転車と沙耶のレンタサイクルを並べ、ルークを乗せたトレーラーを挟むようにして走った。
海まで行く代わりに、運河が大河へ合流する地点を今回の終着点にした。正午を少し過ぎたころ、細い運河の水が広い流れへほどけていく場所に着いた。
沙耶の携帯電話が震えた。佐伯から、面談を延期し、後日オンラインで実施するという返信が届いていた。沙耶が画面を見せると、莉子は小さく息を吐いた。
「本当に変えられたんだ」
「頼んでみる前から、無理だと決めてた。私も同じだったね」
沙耶は堤防に地図を広げた。赤い線はまだ遠く、海まで続いている。
「帰ったら三つの案を比べよう。転勤先へ二人で移る。今の家を残して、莉子の通学と私の働き方を調整する。莉子が祖父母の家から通う。時間と費用と、誰に助けてもらえるかを表にする」
「私も調べる。今の学校に残るなら、どれくらいかかるか」
大河の向こうに海は見えなかった。それでも風には、運河の狭い岸辺とは違う広さがあった。二人は海の方向を一度だけ眺め、ルークのトレーラーを挟んで来た道を引き返した。
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