船底の三角形

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父の葬儀から十日後の早朝、隆司は漁船の操舵室で売買同意書を広げた。窓の隙間から潮の匂いが入り、床板には父が使っていた機械油の臭いが染みついている。査定予定表の上で、修一の署名欄だけが白かった。

「ここに書けばいい。査定は明日だ。工場の借入を返して、残りを分ける」

修一は書類を手に取ったが、ペンには触れなかった。十二年ぶりに同じ船へ乗っても、父の椅子には近づかず、操舵室の入口に立ったままだった。

「工場を畳むのは、お前が決めたことだ」

「だから船を売る。共有名義なんだから、あんたにも金は入る」

隆司は、数字を並べれば話が通ると思っていた。売却代金から借入を引き、島外へ移る費用を残す。その手順には余分がなく、十二年前の話を差し込む場所もなかった。

修一は署名欄を空けたまま書類を返した。足元を歩いていたミニチュアダックスのサンが二人の間で向きを変え、父の椅子の下へ潜り込んだ。

「売らん」

「一度船を潰した人間が、今さら止めるのか」

修一の頬がわずかに動いた。隆司はそれを後ろめたさだと、長いあいだ決めていた。夜明け前に修一が座礁させ、父に勘当された。それが島で通っている話であり、隆司自身も繰り返してきた話だった。

「あの朝の前に、船へ何をした」

修一は低い声で言った。

「お前の口から話せ。話すまでは売らない」

修一が船を降りると、係留索の軋む音だけが残った。隆司は同意書を折り直した。署名がなくても、査定を先に進めれば値段は出る。金額が決まれば、修一も拒み続けられないと考えた。

翌日の午前、干潮へ向かう岸壁に浜田と河野が来た。隆司は二人を船内へ案内し、機関の交換時期、軸受の摩耗、配管の更新箇所を順に説明した。工具箱の蓋を閉める音や点検ハンマーの乾いた響きが、機関室に重なった。

「事故歴は十二年前に一件ですね」

漁協の河野が記録票を見ながら言った。

「修一の操船ミスです。軽い座礁で、親父が修理した。その後は問題なく走っています」

隆司はよどみなく答えた。岸壁にいる修一は訂正しなかった。買い手側の浜田も記録票へ目を落とし、船側の確認に移った。

そのとき、渡し板の手前でサンが腹を地面につけた。短い前脚を一度伸ばしたが、岸壁と船の隙間が開くたびに鼻先を引っ込める。隆司が呼んでも、揺れる板を見たまま動かなかった。

査定を止めるわけにはいかなかった。隆司は倉庫から幅の狭い補助板と金具を持ち出し、通常の渡し板より低く掛けようとした。固定できる場所を探して船縁の下へ肩を差し入れると、湿った鉄と古い塗料の臭いが鼻についた。

修一は岸壁から、その手元を黙って見ていた。

干潮で露出した船側に金具を当てたとき、隆司の指が塗膜の膨らみに触れた。スクレーパーの先を入れると、灰色の塗片が硬い音を立てて剥がれた。その下から、三角形の鋼板が現れた。

角ごとに溶接ビードの幅が違っていた。一辺は熱を入れすぎて痩せ、もう一辺には短い盛り上がりが連なっている。父の仕事でも、造船所の仕事でもなかった。隆司は、その不揃いな線を引いた手を知っていた。

十二年前の夜、隆司は免許もないまま船を動かした。進学前に一度だけ沖へ出てみたかった。港へ戻る途中で暗礁に船腹を触れさせ、響いた衝撃を誰にも言えず、工場の廃材を三角に切って亀裂へ当てた。

明け方までに塗料を重ねれば見えなくなると思った。十分な開先も取らず、船体の内側も確かめなかった。失敗ではなく、修理を済ませたのだと自分に言い聞かせた。

隆司はさらに塗膜を削った。当て板の端から細い亀裂が伸び、船体フレームへ達していた。スクレーパーを持つ指に、十二年前の鉄の震えが戻った。

背後で靴底が鳴った。修一が船縁の下まで降りてきていた。

「翌朝、そこが開いた」

修一は三角形を見て言った。

「水が入って、舵が利かなくなった。浅瀬へ向けるしかなかった」

隆司の記憶の中で、事故の朝がつながった。濡れた甲板に立つ修一、怒鳴る父、伏せた自分の目。修一に口止めされたのではない。父が来る前、修一は隆司の肩をつかんで言ったのだ。

「何も言うな。俺がやったことにする」

進学が取り消される。島から出られなくなる。そう考えた隆司は、兄の前でうなずいた。その後、父が修一を勘当しても、隆司は一度も口を開かなかった。やがて兄の操船ミスという話を、自分でも事実のように語るようになった。

正午近く、浜田が船縁下の作業が長いことを不審に思い、機関室脇の点検口を開けるよう求めた。隆司は三角形を見下ろした。塗料を戻せば、従来の事故記録のまま査定を終えられるかもしれなかった。

構造部材まで亀裂が届いていると分かれば、交換が要る。事故記録も訂正され、査定額は落ちる。見込んでいた自分の取り分では、工場の借入を完済できない。島を出る計画も崩れる。

修一は岸壁へ戻り、何も言わずに待っていた。止めることも、浜田へ告げることもしなかった。隆司がまた兄の沈黙を使うかどうかを見ていた。

「異常はありますか」

点検口の前で浜田が尋ねた。

「古い塗膜だけです」

言葉は途中まで出た。隆司はスクレーパーの刃を三角形の縁へ差し込み、腕に力をかけた。塗膜が裂け、不揃いな溶接痕と亀裂の全体が昼の光にさらされた。

「違います」

隆司は手を止めた。

「査定を中断してください。これは親父の修理じゃない。俺がやったものです」

同日の午後、漁協の会議室で隆司は河野の事故記録を前に座った。浜田は補修費の概算表を置き、修一は壁際の椅子に腰を下ろしていた。

隆司は、無断で船を動かしたことから話した。暗礁への接触、廃材で作った三角形の当て板、不完全な溶接、その箇所が翌朝に破損したことを順に述べた。修一が弟の進学を守るため責任を負ったことも、父や島の者へ真実を言わず、十二年間兄を責め続けたことも伏せなかった。

「記録を訂正してください。修一の操船ミスじゃない。原因は俺です」

河野は古い記録票を見直し、聞き取った内容を書面にした。紙をめくる音が止むたび、窓の外から係留索の軋みが聞こえた。

浜田は新しい査定額を示した。最初の見込みを大きく下回っていた。構造部材を交換し、検査に合格するまで引き渡しはできないという条件も付いた。

その額では借入が残る。補修費と半年分の滞在費を加えれば、島外で暮らし始める余裕も消えた。隆司は数字を見たまま、売買契約をいったん保留にしてほしいと告げた。

「半年、島に残ります。返済計画を組み直して、補修費は俺が出す。直して検査を通してから、改めて引き渡したい」

修一は長く黙っていた。隆司が謝罪すると、書面の訂正箇所へ目を落とした。

「それで十二年が戻るわけじゃない」

「分かってる」

「分かってなかったから、十二年かかった」

修一は許すとは言わなかった。それでも河野が差し出した事故記録の訂正書類には署名した。隆司の名も、その下へ並んだ。

一週間後の朝、漁船は岸壁脇へ上架されていた。隆司は船底に潜り、三角形の当て板へ切断砥石を当てた。高い金属音と火花の中で、十二年前の溶接が一辺ずつ切れていった。

反対側で鋼材を支える手が見えた。作業着を着た修一が、フレームへ肩を当てていた。

「次は三十ミリ上だ」

修一は寸法を読んだ。隆司は返事をして砥石の位置をずらした。二人とも、許すことや許されることは口にしなかった。

休憩に出ると、掛け直した補助板の前にサンがいた。板は前より幅広く、岸壁から低い角度で船へ渡してある。サンは短い脚を伸ばし、腹をこすりそうになりながら一歩ずつ進んだ。

修一が岸壁側で板の端を押さえた。隆司は船側にしゃがみ、渡りきったサンの胴を受け止めた。犬の爪が板を叩く小さな音が消えると、二人は船底へ戻った。

隆司は切り残した三角形に砥石を当てた。修一が新しい鋼材の寸法をもう一度読み上げた。火花が落ち、二人は次の切断位置を確かめた。

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