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月曜日の午前六時四十分、相田早苗は卵焼きを皿へ移していた。古い壁の奥で、べこん、と金属を叩くような音がして、床までかすかに震えた。窓辺の寝床にいたチワワのマメが飛び起き、玄関へ向かって三度吠えた。
「マメ、静かに」
早苗が抱き上げると、小さな体はまだ固かった。小学四年生の悠斗は箸を止め、壁とマメを見比べた。
「今の、マメじゃないよね」
「でも、吠えたのはマメだから」
早苗はカーテンを閉めた。犬がいると外から悟られそうなものを一つずつ隠す癖が、いつの間にか身についていた。
契約更新期限まで三週間となったその日の夕方、大家の小野寺文子から電話が入った。早苗は画面の名前を見た瞬間、マメを寝室へ入れて扉を閉めた。
「階下の黒田さんから、早朝の騒音が続いていると苦情が来ています。犬の鳴き声も聞こえるそうですね。相田さんのお部屋では、動物を飼っていますか」
動物の飼育には事前承諾が必要だった。全面禁止ではないと知っていたのに、断られたら行き場がなくなると思い、早苗は相談できないままマメを迎えていた。
「音については、確認します」
答えになっていないと自分でも分かった。小野寺は少し黙ってから、騒音と無許可飼育の疑いが解消するまで更新審査を保留すると告げた。
電話を切ると、寝室の扉の向こうで爪が床を掻いた。悠斗がランドセルを抱えたまま立っていた。
「更新できなかったら、転校?」
早苗は大丈夫と言おうとしたが、声にならなかった。「そうならないようにする」とだけ答えると、悠斗の顔は少しも安心しなかった。
翌日の放課後、早苗はマメをキャリーに入れ、友人の三木真理の家へ連れていった。餌の袋と毛布を置き、「更新審査が済むまで」と頼んだ。
「預かるのはいいけど、いないことにして通せると思う?」
「今は、見つからないようにするしかないの」
「見つからないことを祈っているうちに、もっと言えなくなるよ」
家へ戻ると、悠斗は居間の隅に残った空の寝床を見つめた。水の器まで片づけられた場所だけ、床の色が濃く見えた。
「マメ、どこ」
「真理さんのところ。少しだけ預かってもらうの」
「家族なのに、マメだけ隠すの? 僕たちも学校から追い出されるの?」
早苗が「仕方ないでしょう」と言うと、悠斗は唇を噛んだ。泣くより先に怒ろうとしている顔だった。
その夜、早苗は真理の家へ引き返した。キャリーから出たマメは悠斗の膝へ駆け寄り、鼻を制服のズボンに押しつけた。
「隠す代わりに調べる。いつ鳴いたか、何があったか。ちゃんと記録する」
早苗が言うと、悠斗はマメを抱いたまま、小さくうなずいた。
水曜日から、早苗は携帯電話を時計の横へ置き、毎朝六時半から記録を取った。時刻、鳴いた回数、直前にしていたこと。マメは六時四十分まではたいてい寝床に丸まり、突然壁か床から伝わる低い振動で跳ね起きた。
木曜日も金曜日も、振動のあとに二度か三度、玄関へ向かって吠えた。早苗はすぐに抱き上げ、声をかけ、静かになれば床へ下ろした。土曜日も日曜日も、順番は変わらなかった。
「先に、どんっていう音がある」
日曜日の記録を覗き込み、悠斗が言った。早苗も同じ箇所へ線を引いていた。マメの声は苦情の一部ではあっても、最初の衝撃を作ってはいない。
早苗は小野寺へ電話し、犬がいることにはまだ触れないまま、五日分の記録を読み上げた。そして次の土曜日、午前六時三十五分に現地で音を確かめ、その場で更新について話したいと申し出た。
「黒田さんにも来ていただきます」
小野寺の返事を聞き、早苗は電話を握り直した。
「お願いします。私も、確認していただきたいことがあります」
翌土曜日の午前六時三十五分、早苗はマメをキャリーへ入れ、悠斗と二階の廊下を下りた。一階の共用玄関では、小野寺と、階下に住む黒田和夫が待っていた。
黒田はキャリーの中を見て眉を寄せた。小野寺も厳しい顔で早苗を見たが、早苗が口を開くより先に、外から足音が近づいた。
新聞配達員が玄関脇の共用投入口を開けた。次の瞬間、べこん、と激しい音が響いた。投入口の内部で緩んだ金属板が枠へ打ちつけられ、空洞になった壁全体が震えた。
その直後、キャリーの中でマメが三度吠えた。小さな体は奥へ退き、耳が後ろへ倒れていた。
「これです」
黒田が壁へ手を当てた。「毎朝聞いていたのも、この順番だ。先に大きい音がして、そのあと犬が鳴く。天井からまとめて響くから、全部犬が暴れている音だと思っていた」
配達員は驚いて手を離した。小野寺が投入口を調べると、内側の金属板を留める金具が外れかけていた。
「これは修理します。共用部分の不具合ですから」
大きな衝撃音がマメのせいではない。その事実に早苗の胸は軽くなりかけたが、小野寺の視線はキャリーから外れなかった。
午前七時を過ぎても、五人は共用玄関に残った。新聞配達員が去ったあと、小野寺は静かな声で言った。
「騒音の最初の原因は分かりました。ただ、無許可で飼っていたことは別の問題です。苦情が出たあとも、相田さんは飼育を認めませんでしたね」
早苗はキャリーの持ち手を握った。ここで投入口だけを原因にすれば、また何かを隠して帰ることになる。
「はい。拒絶されるのが怖くて、先に相談しませんでした。苦情が出てからは、友人に預けて、いないことにしようともしました。マメは長く鳴き続ける犬ではありません。でも、実際に吠えていたことまで、なかったことにはできません」
早苗は黒田へ頭を下げ、次に小野寺へ向き直った。
「投入口の修理費を一部負担します。追加保証金も払います。部屋には防音マットを敷きます。三か月を試行期間にして、鳴き声が続いたらすぐ連絡をもらえるようにします。それでも改善しなければ、改めて条件を話し合います」
「そこまで払えるんですか」
黒田が尋ねた。早苗の頭には、資格講座の案内と、少しずつ貯めた受講費の残高が浮かんだ。
「払います。ここに住み続けたいからです。ただ、私が気づかない音もあると思うので、我慢して苦情が大きくなる前に知らせてください」
黒田はしばらく黙り、「連絡する方法が決まっているなら、三か月は様子を見ます」と言った。
小野寺はその場で許可を出さなかった。だが、早苗の提案を文書にし、実行できるなら更新を再検討すると約束した。
それから一週間後の夕方、早苗は資格講座のために貯めていた金を取り崩した。修理費の一部と追加保証金を用意し、居間と玄関までの床へ厚手の防音マットを敷いた。
悠斗と一緒に全戸を回り、無許可でマメを飼っていたことと、鳴き声を謝った。苦情はまず小野寺へ伝えてもらい、急ぐ場合は早苗へ短いメッセージを送れるよう、連絡先を書いた紙も渡した。
黒田は紙を受け取ると、「朝の音は、修理してからずいぶん違う」と言った。許されたわけではない。それでも、閉じた扉の向こうに苦情を溜められるより、その一言のほうが早苗にはありがたかった。
最後に小野寺宅で、三か月の試行条件へ署名した。小野寺は追加保証金を確認し、条件付きの契約更新書類を早苗へ渡した。
帰り道、悠斗が封筒と早苗の顔を交互に見た。
「講座のお金、使っちゃったの?」
「うん。受けるのは先になる」
早苗は更新書類の入った封筒を抱え直した。「ここに住むためのお金だよ。それから、マメを隠さないためのお金」
悠斗は少し考え、早苗の空いた手を握った。
投入口の修理が終わった翌朝、時計の数字が六時四十分に変わった。早苗は卵焼きを返す手を止め、壁の向こうへ耳を澄ませた。
音はしなかった。窓辺のマメは耳だけを動かし、寝床から起き上がりもしなかった。
「今日、図工で段ボール使うんだ」
悠斗は朝食を食べながら、学校の予定を話していた。早苗は五日分の記録表を畳み、引き出しへしまった。
偶然、音の順番が見えただけでは、この部屋は守れなかった。違反を認め、先送りにした講座の費用を差し出し、これからの約束を作って、ようやく事情は誰かと話し合えるものになったのだ。
早苗は六時四十分の静けさを聞いた。それは秘密を守るために息を潜めた静けさではなく、ここにいる者たちが互いの存在を知ったうえで作った静けさだった。
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