おすわりしない商店街

十一月上旬の午前、市役所地域振興課で、小森夏美は藤井課長から一枚の事業計画書を渡された。年度内に、寂れかけた朝日商店街のPR動画を制作する。その成果は、年度末に控えた夏美の契約更新審査でも確認されるという。

「再生数だけ出せばいい、という事業じゃないからね。どう進めたかも含めて報告して」

藤井課長の言葉に、夏美は力強くうなずいた。だが頭に残ったのは、成果と審査の二語だった。目に見える成功を出さなければ、来年度の自分の席はないかもしれない。

その日から夏美は、秒単位の絵コンテを作った。十一秒で店主が暖簾を出し、十五秒で看板犬のゴンがおすわりし、十八秒で全員が笑う。台詞、視線、手の角度まで書き込み、偶然が入り込む隙を一つずつ消していった。

同日の午後、夏美は完成した指示書を抱えて朝日商店街へ向かった。アーケードの床には立ち位置を示すテープを貼り、文具店前に集まった店主たちへ台詞カードを配った。

「丸山さんは十秒で店から出てください。柴田会長は十二秒で右を向いて、十五秒でゴンにおすわりを。十八秒になったら、皆さん一緒に笑顔です」

精肉店「丸山ミート」の丸山美代子が、カードと夏美の顔を見比べた。

「笑う秒まで決まってるのかい。遅れたら罰金?」

「いえ。ただ、編集しやすいように統一したいんです」

若い撮影助手の青木直人が本番用カメラを確かめる横で、店主たちはぎこちなく笑う練習をした。文具店主で商店会長の柴田源蔵は、足元の柴犬をなでながら遠慮がちに言った。

「小森さん、ゴンは散歩に出ると、必ず丸山さんとこへ寄るよ。換気口の匂いが好きでね」

夏美は絵コンテをめくった。肉屋はカメラの向きから外れている。本番前に餌を控え、反対向きに立たせれば問題ないと判断した。

「おすわりはできるんですよね?」

「できるよ。肉の匂いがしなければ」

最後の一言を、夏美は注意事項に書き加えなかった。

翌朝、開店直前のアーケードで一回目の撮影が始まった。青木が本番用カメラの録画ボタンを押し、同時に制作記録用の小型カメラも回した。

店主たちは指示どおりに動いたが、暖簾を出す手は妙に遅く、笑顔は記念写真のように固かった。それでも十五秒、ゴンは床の印の上で一度だけきれいにおすわりをした。

その瞬間、丸山ミートの換気扇が動き出した。仕込み中の肉の匂いがアーケードへ流れ、ゴンの鼻がひくりと上を向いた。

「ゴン、おすわり。おすわりです」

ゴンは立った。次の瞬間には柴田を引っ張り、画面の外へ一直線に走っていた。

「ゴン、待て!」

柴田が追い、丸山が店から顔を出した。

「おや、今日も来たか」

その声につられて、ほかの店主たちまで持ち場を離れた。ゴンを囲んで笑う姿に、夏美は反射的に叫んだ。

「カットです! 皆さん、元の位置へ戻ってください!」

二回目、夏美は自分でゴンのリードを短く持ち、犬用のおやつを目の前に掲げた。ゴンは期待どおりに座り、期待どおりにおやつを食べた。そして食べ終わると、期待を裏切る速さで肉屋へ向かった。

「ちょ、ちょっと、ゴン!」

夏美は数歩引きずられた。青木がカメラを抱えたまま追い、店主たちから笑いが漏れたが、夏美が振り返ると、全員すぐに口を閉じた。

三回目を前に、夏美は換気口を板で塞ごうとした。丸山は腕を組み、その前に立ちはだかった。

「営業の邪魔をしてまで撮るのかい。こっちは匂いも商売のうちだよ」

「撮影の間だけです。ゴンが動かなければ、すぐ終わりますから」

「犬を止めるために店を止めろって? 順番が逆だろう」

待たされていた店主からも、「もう開店時間だ」「同じ台詞を何度言わせるんだ」と不満が上がった。夏美は焦るほど言い直しを求め、求めるほど皆の顔から笑みが消えていった。

「もう一度だけお願いします。今度は十八秒で、もっと自然に笑ってください」

「自然に笑う時間を指定されてもなあ」

柴田の穏やかな声が、いちばん重かった。撮影は中断され、店主たちはそれぞれの店へ戻った。床に残った立ち位置のテープだけが、誰もいない舞台の印のように並んでいた。

昼過ぎ、商店街の集会所で、夏美は青木と撮影素材を確認した。台本どおりの部分はどれも不自然で、使える表情がほとんどない。いっそ無人の店先だけを撮り、無難な紹介動画にしようかと考えた。

「こっちも見てみませんか」

青木が制作記録用カメラの映像を再生した。画面には、一回目の撮影でゴンを追っていった柴田たちが映っていた。

肉屋前に集まった店主たちは、通りかかった客へ普段どおりに声をかけていた。丸山が「鍋にするなら、八百屋の白菜も持ってきな」と勧めると、八百屋は別の客に「年賀状の印刷は柴田さんとこが早いよ」と返している。

その脇では、ゴンを追って母親から離れかけた子どもを柴田が呼び止め、丸山が通りの向こうの母親へ手を振っていた。子どもが無事に手をつなぐと、周りの店主も客もほっと笑った。

誰も立ち位置を守っていない。誰も指定した台詞を口にしていない。それなのに、画面の中の商店街は、夏美が整えた場面よりずっと生き生きしていた。

「本番外だから、止めるべきか迷ったんですけど」

青木は画面を止め、夏美を見た。

「僕には、こっちのほうがPRに見えます」

夏美にもそう見えた。だがこれを使えば、自分の計画が失敗したことも、現場を険悪にしたことも上司へ明かすことになる。無難に撮り直すか、失敗から生まれた映像に賭けるか。停止した画面の中で、ゴンだけが肉屋を見上げていた。

翌朝、夏美は開店前の商店街に店主たちを集めた。手には絵コンテではなく、何も書かれていない紙を持っていた。

「昨日は、申し訳ありませんでした。皆さんを台本どおりに動かすことばかり考えて、商店街が普段どう動いているかを見ていませんでした」

丸山は黙って腕を組み、柴田はゴンのリードを持ったまま聞いていた。

「失敗は隠さず、報告書に書きます。そのうえで、もう一回だけ撮らせてください。ゴンの、いつもの散歩を。台詞も立ち位置も決めません。皆さんは普段どおり働いてください」

「それで動画になるのかい?」と丸山が聞いた。

「なるように私たちが撮ります。皆さんには、皆さんの仕事を任せます」

しばらくして、柴田がゴンの背を軽くたたいた。

「じゃあ、散歩に行くか」

撮影は一回だけと決めた。柴田とゴンが文具店前を歩き出し、青木が少し離れてカメラを回す。夏美は誰にも秒数を告げず、通りの端から流れを見守った。

ゴンは当然のように丸山ミートへ向かった。丸山は「ほら、一つだけだよ」と犬用のおやつを差し出し、ゴンは真剣な顔で受け取った。

その道中、店主と客の挨拶が重なり、隣の店を勧める声が飛び交った。ゴンに笑いかけた子どもへ柴田が手を振り、その子の家族に八百屋が声をかける。青木のカメラは、それらを途切れない一続きの景色として収めていった。

撮影後、夏美は無人の店先だけを使う案を捨てた。初日の失敗、統制を強めて関係を悪化させたこと、記録映像から方針を変更した経緯を報告書に記し、普段の散歩を中心に編集した動画とともに市役所へ提出した。

公開から一か月後、言うことを聞かないゴンと店主たちの自然なやり取りは評判になり、週末の朝日商店街を訪れる人が増えた。動画を見てゴンに会いに来た客が、肉屋で買い物をし、八百屋や文具店にも足を延ばした。

商店主たちは連名で市役所へ意見書を出した。そこには、夏美が失敗を認め、全員の持ち味を生かす形へまとめ直したこと、その調整力を評価する言葉が並んでいた。

地域振興課で夏美を呼んだ藤井課長は、動画の反響、報告書、意見書を机の上に重ねた。

「計画どおりではなかったね」

「はい」

「でも、計画に戻すより、目的に戻った。地域との協働も、商店主の評価も確認できた。契約は更新します」

夏美は一度息をのみ、それから深く頭を下げた。成功とは、誰もが自分の指示に従うことだと思っていた。けれど信頼は、相手を支配したときではなく、その人の役割を任せたときに生まれるらしい。

後日、商店街集会所の丸テーブルに、夏美は白紙を一枚だけ置いた。完成済みの企画書を配る代わりに、柴田や丸山たちと次の催しについて相談するためだった。

「まず、何をやりたいか聞かせてください」

机の下では、誰にも命じられていないゴンが静かに座っていた。ところが肉屋のほうから匂いが届くと、すぐに立ち上がる。

「あ、ゴン!」

柴田が追い、丸山が笑い、ほかの店主たちも席を立った。夏美は白紙をそのままにして、今度は笑いながら皆の後を追った。

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