ほどいて二着

土曜の朝、初枝は自宅の工房跡で、衣装箱の蓋を二度開け閉めした。中にあるはずの濃紺のロングコートがない。四十年前、自分のために仕立て、仕事を退いてからも手放さなかった一着だった。

電話を受けた息子の修一は、しばらく黙ったあとで言った。「不用品の箱に、衣装箱の中身も混ぜた。あのコート、リユース店へ持っていったかもしれない」

「かもしれないで、四十年を処分しないでちょうだい」初枝は低く言い、足元の白いマルチーズを見た。ミルは空の衣装箱に前脚をかけ、鼻を鳴らしていた。保管中のコートのそばで、よく丸くなって眠っていた犬だ。

修一が店へ問い合わせると、濃紺のコートはその日の古着市へ回した品に含まれていると分かった。初枝は裁縫道具の小箱と、若い自分がコートを着ている写真を鞄へ入れ、ミルのリードを握った。

同日午前、商店街の古着市は、ハンガーの列と人の肩で狭くなっていた。初枝が一着ずつ濃紺を探していると、ミルが急にリードを引き、低いラックの前で動かなくなった。鼻先には、裾の長い一着が揺れていた。

「ミル、分かったの」初枝が屈むと、犬はコートを嗅ぎ続けた。裏襟を返せば、不揃いな星形の留め縫いがある。急いで仕上げた夜、自分の癖が出た箇所だった。

「それ、さっき買ったばかりなんですけど」販売卓の向こうから、短い髪の若者が声をかけた。十九歳の凪は隣の古着商を指し、開場前に代金を払ったのだと説明した。

初枝は内側を開き、色の薄れた自作ラベルを示した。「私が仕立てたものよ。息子が間違えて売ったの。返してくれないかしら。もちろん、あなたの払った分は渡します」

凪は写真とラベルを見比べ、驚きを隠さなかったが、コートから手を離さなかった。「もう劇団にデザインを出して、これを使った舞台衣装を納める約束をしています。事情は分かります。でも、返せません」

昼前、二人は古着市の運営本部脇にある休憩所へ移った。初枝は修一とリユース店へ電話をかけ、誤売却の経緯を確かめた。店から古着商へ、古着商から凪へと、売買はすでに終わっていた。

「今の持ち主があなたなのは認めます」初枝は購入額を聞き、その何倍もの金額を紙に書いた。「これで買い戻させて。迷惑料も含めているわ」

凪は首を横に振り、携帯電話に保存した衣装画を見せた。濃紺の布を使ったベストで、劇団の承認を示す返事も残っている。「思い入れがあるから契約を破ります、では、次の仕事を任せてもらえません。僕にだって信用があります」

「古い服を切り刻むことが仕事なの」初枝は衣装画を一瞥した。「縫い代も布目も知らない若い人が、格好だけ変えてリメイクと呼ぶ。あれを見れば、心配にもなるわ」

凪の眉が上がった。「箱にしまうことだけが、服を大事にする方法ですか。着られず、誰にも見られないままのほうが、服はうれしいんですか」

初枝は答えず、席を立った。返してもらえない悔しさより、自分の仕事まで古いと言われたような腹立たしさが先に立っていた。

正午、凪の販売卓へ戻ると、凪はコートをラックへ掛け直そうとした。初枝がもう一度だけ襟へ触れようと一歩近づき、その足元で、たるんだミルのリードが飾りボタンに絡んだ。

ミルが人を避けて向きを変えた瞬間、鈍い音がした。ボタンが引かれ、その周囲の表地が大きく裂けた。濃紺の傷口から、古い芯地が白くのぞいた。

「ミル!」初枝はすぐ犬を抱き上げ、凪に頭を下げた。「私の不注意です。弁償します」

凪は青ざめながら裂け目を押さえた。「納品まで十日しかない。裏から接着芯を当てれば、なんとか……」

初枝は裂け目に指を入れず、周囲を軽く曲げて確かめた。表地だけでなく芯地も縫い代も弱り、別の箇所まで小さく鳴った。「ここだけ塞いでも、舞台で腕を振れば次が裂ける。原形のまま着せるのは無理ね」

凪は唇を噛んだあと、初枝の裁縫道具の小箱を見た。「応急処置だけでも教えてください。作業できる場所はありますか」

同日午後、二人は初枝の自宅にある工房跡で、コートを作業台へ広げた。ミルは離れた椅子の下につながれ、今度はおとなしく二人を見ていた。

凪はコートを解体せずに裏表を調べ、裂け目へ接着芯を当て、その上を飾り布で覆う案を出した。「舞台なら客席から傷は見えません。照明も暗い場面です」

「見えなければいい、ではないわ」初枝は弱った箇所を指で順に示した。「激しく動けば内側から裂ける。それに、私のラベルが残ったままなら、こんな処置をした作り手が私だと思われる。あなたの納期だけでなく、私の縫製の信用にも関わる」

「四十年前のラベルの信用まで持ち出します?」凪は呆れたが、展開図を机に置いた。「じゃあ、先生ならどうします」

「先生と呼んで、ごまかさないで」初枝は言い返し、図面に目を落とした。すると、前後の布目、俳優が腕を上げたときの可動域、照明を受ける面まで細かく書き込まれていることに気づいた。派手な線の下には、着る人間を考えた設計があった。

「あなた、布目は見ているのね」初枝が言うと、凪は肩をすくめた。「切り刻むだけにしては、でしょう」

返す言葉がなく、初枝はコートの長い裾を撫でた。買い戻したあとの姿を思い浮かべても、着る自分は出てこない。衣装箱へ戻し、ときどき蓋を開けて確かめるだけだった。

「私も、守ることを言い訳にしていたのかもしれない」初枝は紙を引き寄せた。「この傷んだ前身頃は使わない。上半分から舞台用のベストを取る。裾と袖をほどけば、私の短い上着が取れるわ。布目を合わせれば、二着にできる」

凪は身を乗り出した。「この幅で袖まで?」

「できる。ただし、あなたの応急処置よりずっと手間がかかる」初枝は鉛筆で型を引いた。「買い戻しはやめます。持ち主はあなた。その上で、共同制作を申し込みます」

凪は図面とコートを交互に見た。「ベストは僕が劇団へ納める。残り布の上着は、技術を借りる対価として初枝さんへ渡す。それでいいですか」

「口約束で仕事をする気?」初枝が紙を差し出すと、凪は笑って合意を書き留めた。「そこは若者より新しいんですね」

夕方、二人は俳優の腕の動きと古い布の強度を照らし合わせ、型紙を修正した。初枝は布目の読み方と切りじつけを教え、弱った縫い代には細い補強布を沿わせるよう指示した。凪は照明を受ける側だけ高くなる、非対称の襟を提案した。

「左右が違うなんて、落ち着かないわ」と初枝は言ったが、型紙は捨てなかった。「でも舞台では、止まっている服より動いて見えるかもしれない」

印を付け終えると、初枝は鋏を手にした。四十年前の自分が縫った最初の一針を見つめ、完全な姿はもう二度と見られないのだと胸の内で言い切った。それから、自ら縫い目へ鋏を入れた。

糸が一本、かすかな音を立てて切れた。凪が隣で息を止め、初枝は「見ていないで、次をほどいて」と促した。二人は夜までにコートを解き、使える布を二着分へ分けた。

それから数日、凪は工房跡へ通った。初枝が切りじつけを抜く順を教えれば、凪は舞台上で襟がどう光を拾うかを説明した。椅子の下のミルは、布が二つの形になっていくあいだも、濃紺の切れ端へ鼻を向けていた。

十日後、小劇場の楽屋で、完成したベストを着た俳優が大きく腕を振った。補強した縫い代は耐え、非対称の襟が照明の下で鋭く立った。凪は契約どおり、衣装を劇団へ納めた。

初枝の短い上着にも、凪が同じ意匠の小さな非対称の襟を付けた。初枝は内側に新しいラベルを縫い込み、制作年の横へ「初枝・凪」と二人分の名を並べた。

帰り道、初枝はその上着を着て、ミルのリードを握った。失われたロングコートの裾を思えば、胸にはまだ小さな痛みがあった。それでも同じ布が別の舞台で動いていると知ると、箱の中より遠くまで思い出が歩いていく気がした。

その後も凪は、直し方や古い仕立てを相談しに工房跡へ通った。大胆な線を引くたび、初枝はまず眉をひそめたが、頭ごなしには否定せず、同じ作業台で理由を聞いた。二人のあいだでは、ほどかれた糸の代わりに、渡された技術と新しい話が少しずつ縫い合わされていった。

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