一泊分の父親

六月下旬の土曜日、午前九時。久保田亮介はアパートの前で、元妻の真紀が運んできた荷物を両手で受け取った。結衣の着替えが入ったバッグ、ボンの餌と水入れ、それからフレンチブルドッグのボン本人。わずか一泊なのに、玄関は引っ越し当日のようになった。

「まず遊園地。帰ったら手作りハンバーグ。夜は映画で、明日の朝はパンケーキ」

亮介は室内の壁に貼った予定表を指さした。色分けされた紙を見て、小学四年生の結衣は「学校の時間割より細かい」と笑ったが、真紀は笑わなかった。

「ボンの散歩は建物の周りを十分くらいでいいから。まだ午前中でも暑くなるし、水は必ず持って。呼吸が荒くなったら、すぐ冷房のあるところに入れて連絡して」

「分かってる。犬の散歩くらい大丈夫だよ」

本当は、どの程度なら荒い呼吸なのか、十分を少し超えるのも駄目なのか、聞きたいことはあった。しかし細かく尋ねれば、初めて宿泊を任された父親として頼りなく見える気がした。今回を完璧に終えれば、月二回の日帰り面会を増やせるかもしれない。その期待を、亮介は予定表のいちばん下に見えない字で書き込んでいた。

真紀はボンの首輪を確かめ、結衣に何かあれば電話するよう言って帰った。ドアが閉まると、亮介は両手を打ち合わせた。

「よし。予定どおり、まずは散歩だ」

午前十時、三人はアパートを出た。建物を一周するだけのつもりだったが、角まで来ると、亮介は川沿いの遊歩道へ続く道を指さした。

「こっち、景色がいいんだ。人気のパン屋もある。遊園地に持っていくパンを買おう」

「でも、十分って言ってたよ」

「水もあるし、まだ朝だから平気。ボンだって同じ道より楽しいだろ」

ボンは答えず、短い脚で歩いた。最初は勢いよく前へ出ていたが、川沿いに着くころには亮介の横へ下がり、やがて結衣の後ろを歩くようになった。日差しは水面で照り返し、亮介のシャツの背中にも汗がにじんだ。

結衣が何度か振り返った。「もう戻ろうよ。ボン、遅くなってる」

「パン屋はもう少し先だ。そこで水を飲ませて、近道で帰ればいい」

「抱っこしたほうがよくない?」

「歩けるよ。犬なんだから、散歩は好きだろ」

自分でも妙な理屈だと思ったが、ここで引き返すと、結衣のために選んだ道まで間違いだったことになる。亮介は遊園地の入場時刻を確認し、少しだけ歩調を速めた。

午前十時四十分ごろ、ボンは遊歩道の木陰に入ったところで座り込んだ。舌を長く出し、喉の奥を鳴らすように荒い呼吸をしている。亮介がリードを軽く引いても、四本の脚を地面に貼りつけたまま動かなかった。

「少し休めば歩ける。ほら、ボン」

亮介はしゃがみ、明るい声を作ってもう一度リードを引いた。頭に浮かんだのは真紀の注意ではなく、遊園地の入場時刻だった。ここから戻って支度をすれば、まだ間に合うかもしれない。

結衣がボンの前に立ち、リードを持つ亮介の手を見た。「引っ張らないで。お母さんに電話する」

「待て。そんな大げさにしたら、今日の泊まりまで中止になるかもしれないだろ」

口にした瞬間、亮介は自分が何を優先したのか分かった。結衣は怒鳴らなかった。ただ、ボンを背中にかばったまま亮介を見返した。

「お母さんなら、予定よりボンを選ぶよ」

ボンの胸が速く上下していた。亮介は予定表どおりに動かない犬を見ていたのではない。自分の失敗を知らせる証拠を、無理に歩かせて消そうとしていた。

午前十時四十五分、亮介は自分の携帯電話を取り出した。真紀につながると、言い訳を挟まずに、散歩を始めた時刻と川沿いまで来たこと、ボンが動かず呼吸が荒いことを伝えた。

「十分って言われたのに、四十分くらい歩かせた。結衣が電話するって言ったのも止めた。ごめん。どうすればいい」

真紀は一瞬黙ったあと、動物病院の番号を告げた。亮介はすぐに電話をかけ、指示を聞いた。無理に歩かせないこと、冷房のある場所へ移すこと、できるだけ早く受診すること。その一つ一つを、今度は聞き漏らさないよう復唱した。

近くの店まで、亮介と結衣はボンの体を左右から支えて運んだ。店員に事情を話すと、冷房の風が届く場所を空けてくれた。亮介は車を手配し、その間、結衣が水で湿らせた布をボンの体に当てるのを手伝った。

動物病院では、ボンはしばらく処置と診察を受けた。大事には至らなかったが、今日は安静にして注意深く様子を見るよう獣医師に言われた。待合室へ駆けつけた真紀に、亮介は立ったまま頭を下げた。

「注意を理解したふりをした。長く歩かせて、結衣が連絡するのも止めようとした。全部、俺が悪かった」

真紀はボンを連れて帰ると言った。それから結衣に、今日は自分と帰るかと尋ねた。結衣はボンのそばにしゃがみ、「お父さんのところに泊まる。でもボンも一緒がいい」と答えた。

真紀はすぐには頷かなかった。亮介に病院の指示を言わせ、夜中に変化があれば迷わず連絡できるか確かめた。亮介が一つずつ答えると、真紀はボンのリードを渡した。

「失敗したことより、黙って続けるほうが怖いから。今夜は何かあったらすぐ電話して」

午後、三人はアパートへ戻った。遊園地は中止、ハンバーグの材料を買う時間もなくなり、映画を見る空気でもなかった。冷房の効いた部屋でボンを休ませ、夕食には帰りに買ったおにぎりと総菜を並べた。

「遊園地、行けなくしてごめん」

亮介はそこで止めかけたが、それでは今日いちばん謝るべきことを隠すことになる。「それだけじゃない。ボンを引っ張ったし、失敗したのを隠すために、結衣にも黙らせようとした。ごめん」

結衣はおにぎりの包装を半分だけ剥がし、しばらく指で端をいじった。「遊園地に行けないのは、別にいい。ボンを引っ張ったときのお父さんが、ちょっと怖かった」

亮介は、焦っていただけだとも、ボンがここまで弱るとは思わなかったとも言わなかった。「うん。怖かったと思う。分からないことを分からないって言う練習をする」

気まずい沈黙の中で、ボンの寝息だけが聞こえた。やがて結衣が壁の予定表を剥がし、裏返して床に置いた。

「じゃあ、練習用にこれ使えば?」

その夜、二人は予定表の裏に太い字で手順を書いた。散歩は建物の周囲を十分まで、暑い日は中止、水と移動用バッグを持つ、餌は決められた量だけ。真紀と動物病院の連絡先も書き、最後には結衣の提案で「迷ったら、すぐ電話」と赤く囲んだ。

亮介は自分で決めつけず、項目ごとに結衣へ確認した。完成した一枚を写真に撮り、真紀へ送ったあと、「足りないところを教えてください」と付け加えた。敬語になったのがおかしかったのか、結衣が少し笑った。

翌朝、迎えに来た真紀は、玄関に貼られた手順書を黙って読んだ。亮介は本来ならこのとき、面会を増やしてほしいと切り出すつもりだった。

「面会を増やす話、今回はやめる。まず月二回で、決めたことを守れるようになりたい」

真紀は亮介を褒めなかった。ただ手順書の「散歩十分まで」の横に、「気温が高ければ散歩なし」と書き足した。

「次からも、分からないなら先に聞いて」

「そうする」

二週間後の土曜日、夕方。玄関には修正された手順書が貼られ、遊園地の券も特別な献立もなかった。亮介と結衣とボンは、建物の周囲だけをゆっくり歩いた。

亮介は時計を見て、次にボンの呼吸を見た。七分ほどでボンが自分から玄関のほうへ向きを変えると、亮介もためらわず引き返した。

「もう終わり?」と結衣が笑った。

「今日はこれで満点」

台所では、結衣に教わりながら亮介がキャベツを切り、三人で食べる簡単な焼きそばを作った。麺の一部はフライパンの底に貼りつき、少し黒くなったが、亮介は焦げたところを下に隠さなかった。

結衣と自分の皿へ分け、味をつけていないボン用の具も小皿に取った。見栄えは予定表のどこにも載せられない出来だったが、亮介はそれを三人分の夕食として食卓へ運んだ。頼れる父親になるには、一人で何でも正しくできるふりをする必要はない。助けを求め、決めたことを守り、焦げたなら焦げたと言うところから始めればよかった。

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