雨の日の採寸

初夏の午後、森下佳苗は父の家の一室を改装した作業場で、ミニチュアダックスの麦の胸に巻尺を回していた。父に胴の長い体を支えてもらい、首回り、胸回り、背丈、前脚の間隔を手帳へ書き込んでいく。犬用の服を作るのは初めてだったが、型紙を引くことなら、大手服飾会社で十五年続けてきた。

方眼紙に落とした線は、麦の長い胴をすっきり包む形になった。佳苗は胸回りの数値から余裕を削り、前脚の付け根へ続く曲線も浅く整えた。実際の寸法どおりに膨らませるより、そのほうが完成した姿は端正に見えた。

「胸のあたり、きつくないか」

父は麦の背を撫でながら言った。佳苗は線を引き直さず、定規の端で型紙を押さえた。

「防水布は余ると不格好になるの。雨も入りやすくなるし、これくらいでいい」

立たされたままの麦は前脚を一度動かしたが、佳苗は静止した姿を確かめただけだった。濃い青の防水布を裁ち、裏地と止水ファスナーを縫い合わせると、細身の試作品ができあがった。

翌日、試作品を着た麦の写真が地元のペット用品店に飾られた。麦が横向きに立つ写真では、背中から腰へ流れる線が美しく、店のSNSにも褒める言葉が並んだ。

「月末の展示会で、雨の中を歩くところを見せてください。評判がよければ、三十着仕入れます」

店長の言葉に、佳苗はうなずいた。三十という数は、故郷での仕事を一時の試みに終わらせないための足場に思えた。

その後の三日間で、十二人から予約が入った。展示会後の発送を条件に、代金の半額が振り込まれ、佳苗はその金で防水布と裏地、止水ファスナーを買った。退職金を開業資金と、失敗したとき都会へ戻るための金に分けていたから、予約金が入らなければ材料をそろえることはできなかった。

作業場へ届いた生地の反物を前に、佳苗は同じ型紙で十二着を作る順序を書き出した。試作品を着た麦は、写真の中で少しも形を崩していなかった。

展示会まで三週間となった雨の朝、佳苗は初めて麦を試作品のまま外へ連れ出した。濡れた歩道を、麦は短い脚で数歩進んだが、家の前の低い縁石で止まった。

麦は前脚を上げかけて戻し、小刻みに踏み替えた。それから雨粒を払うように何度も体を振った。脚を動かすたび、脇の布に浅いしわが寄った。

「いつもなら、そこはすぐ越えるぞ」

父が傘の下から言った。佳苗はしゃがんで脇のしわを伸ばし、ファスナーの位置を確かめた。

「雨の日に歩きたくないだけよ。服が嫌なら、平らなところでも止まるはずでしょう」

佳苗がリードを引いても、麦は縁石の手前から動かなかった。結局、散歩を切り上げて抱き戻したが、佳苗は型紙を机の引き出しへ戻さず、裁断台の中央に置いた。

それからの三週間、作業場では一日中ミシンが動いた。佳苗は十二着分をまとめて裁ち、同じ箇所を続けて縫うことで時間を縮めた。完成品は透明な袋へ入れられ、発送日を待つ棚に一着ずつ積み上がった。

「もう一度、麦を歩かせてみたらどうだ」

父が尋ねたとき、佳苗は三十着分の裁断計画から顔を上げなかった。

「展示会で歩かせるから十分。今は予約分を終わらせないと」

麦は試作品を見せると父の足元へ回り込むようになった。それでも佳苗は、もともと雨の散歩が好きではないのだと考えた。いま型紙を疑えば、十二着は作り直しになり、展示会にも納期にも間に合わない。

月末の午後、ペット用品店の前に設けられた実演スペースには小雨が降っていた。試作品を着た麦が平地を数歩進むと、見守る客から小さな拍手が起きた。その先には、動きを見せるための低い階段が置かれていた。

麦は一段目で止まった。右の前脚を上げかけては下ろし、左の前脚でも同じことを繰り返したあと、ついに腹を濡れた路面へつけた。

佳苗は麦を抱き上げ、店の軒下でファスナーを外した。服を脱がせると、両脇の毛の下に赤い擦れ跡が走っていた。細い線が、自分の引いた曲線と重なって見えた。

「体格の違う犬で続けましょう」

店長は来場客のほうを気にしながら声を落とした。

「麦ちゃんの個体差ということにできます。ここで止めたら、三十着の話も難しくなります」

佳苗は返事をせず、麦を父に預けた。実演を撮っていた父のスマートフォンを借り、店のバックヤードで映像を最初から再生した。

画面の中で、麦が前脚を持ち上げるたび、胴回りの布が引かれていた。狭い脚ぐりが脇へ食い込み、その力で背中の布まで前方へずれていく。映像を止めると、引きつれたしわは三週間前の縁石で見たものと同じだった。

佳苗は巻き戻して、もう一度見た。麦は歩きたくなかったのではない。歩こうとして、服に止められていたのだ。

「型紙の欠陥です」

佳苗は店長へスマートフォンを返した。自分の声が、思ったより静かに聞こえた。

「別の犬にも着せられません。今日の展示は取り下げます。三十着の話も、なかったことにしてください」

店長はしばらく黙ってから、実演中止を知らせるため表へ戻った。父の腕の中で、麦は赤くなった脇を舐めようとしていた。佳苗はその鼻先をそっと手で遮った。

その夜、作業場の棚には発送を待つ十二着が残っていた。佳苗は予約客の連絡先を一件ずつ開き、前脚の動きを制限し、皮膚を擦る欠陥が見つかったことを説明した。完成品は送らず、予約金を全額返すと伝えた。

作り直しを待つと言ってくれた客もいたが、佳苗は先に返金させてほしいと答えた。欠陥のある品を作った自分が、もう一度完成するまで客の金を預かり続けることはできなかった。

予約金はすでに材料へ変わっていた。翌朝、佳苗は都会へ戻る場合に備えて残していた口座から金を移し、十二人全員へ返した。残高は、引っ越しにも再出発にも足りない額になった。

棚から袋を下ろし、十二着すべてに「不良」と書いた札を付けた。父は何も言わず、その作業が終わるまで入口に立っていた。

「これで、戻れなくなったな」

佳苗が言うと、父は棚の札を見た。

「戻るために残した金ならな」

返金のあと、佳苗は残った資金で少量の生地を買った。今度は立たせた麦の寸法だけではなく、歩くとき、段差を越えるとき、向きを変えるとき、伏せるときの体を見た。巻尺を当てる前に、父に頼んで何度も動かしてもらった。

胴回りには指が入る余裕を増やし、前脚の付け根には可動のための切り替えを設けた。濡れた布が重くなっても脇へ当たらないよう、縫い目の位置を外へ移した。紙の上では以前より幅広く、静止した輪郭は野暮ったくさえ見えた。

試作品ができるたび、佳苗は雨を待って麦を外へ連れ出した。平地を歩かせ、縁石を越えさせ、角を曲がらせた。布が引かれれば線を戻し、擦れがなくても麦が体を振れば、どこに重さが集まるのかを調べた。

三か月目の雨の日、麦は新しいレインコートを着たまま、自分から玄関を出た。家の前の縁石で止まらず、短い前脚を上げて越えると、そのまま父の先まで走った。背中の布はずれず、脇にも赤みは残らなかった。

佳苗は追いかけず、その動きを最後まで見た。濡れた青い布は以前ほど細く見えなかったが、走る麦の体に沿って、必要なぶんだけ形を変えていた。

返金から三か月後、雨上がりの午後に、改良品がペット用品店の小さな一角へ並んだ。三十着の仕入れ話が戻ることはなかったが、店長は修理と個別採寸の受付場所を空けてくれた。そこに置かれた完成品は一着だけだった。

やがて、一人の客が犬を連れて店へ入ってきた。十二人のうち、返金を受けた一人だった。

「失敗を知らせてくれたでしょう。それに、麦ちゃんが走っている動画も見ました。この子にも作ってもらえますか」

佳苗は既製の寸法表を出しかけて、手を止めた。代わりに犬の前へしゃがみ、店内を歩かせてもよいか尋ねた。

「歩き方を見てから採寸します。段差も試して、そのあとで型紙を引かせてください」

客がうなずくと、佳苗は巻尺と手帳を持って立ち上がった。店の外では雲の切れ間から光が差し、改良品を着た麦が、雨上がりの歩道に残る水たまりを軽く越えていった。

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