返す鍵、残す鍵

日曜日の午前、森下澄江はミニチュアダックスの麦を連れて、いつもの散歩道を歩いた。短い脚で先を急ぐ麦に合わせて歩幅を狭め、帰宅すると水を替え、決められた薬を与えた。

玄関の呼び鈴が鳴り、息子の孝之が封筒を抱えて入ってきた。食卓に広げたのは、高齢者住宅のパンフレットだった。

「見学だけでもしておいたらどうかな。地震のときも安心だし、転んで動けなくなったら、すぐ誰かが来てくれる」

澄江は表紙の明るい食堂を見たあと、隅にある小さな文字を指でなぞった。ペットの飼育はできません、と書かれていた。

「まだ仕事にも行けているし、麦の散歩もできてる。私はここで暮らすよ」

「今できるかじゃなくて、何かあったときの話をしてるんだよ」

孝之の声には責める響きより、焦りがあった。その心配を払いのけるのがつらくて、澄江はパンフレットを封筒へ戻すだけにした。緊急時のために預けてある合鍵を、それ以外には使わないでほしいという言葉は、喉まで来て引っ込んだ。

二日後の火曜日、勤務を終えた澄江が帰ると、自宅の戸口が少し開いていた。中では孝之が保険証券を束ね、服を二つの箱に分けていた。

「どうしているの」

「片づけを手伝ってるだけだよ。必要なものと、もう使わないものを分けておこうと思って」

断りもなく入ったことを咎めようとしたとき、麦が廊下の戸棚を前脚でかき始めた。いつもなら玄関脇に掛かっているリードが見当たらない。澄江が戸棚を開けると、奥の箱にリードと薬の記録、動物病院の診察券がまとめて入っていた。

箱の底には、犬の譲渡相談票と高齢者住宅の入居相談予約票が重ねてあった。譲渡相談票には、麦の年齢や持病まで孝之の字で記されている。

「麦を、どこへやるつもりだったの」

孝之は黙って箱を見た。それから、隠し通せないと悟ったように息を吐いた。

「引き取ってくれるところを探してた。あの住宅は犬が駄目だから、先に決めておいたほうがいいと思ったんだ。入居相談も、母さんの代わりに進めるつもりだった」

「私は頼んでいない」

「でも、勤務中に倒れたらどうするんだ。母さんだけじゃない、麦まで困る。一人で何でもできるつもりでいるほうが無責任だよ」

澄江の胸の奥で、飲み込んできた言葉が一度に押し上がった。「何の助けもいらない。私の物に触らないで。今日は帰って」

孝之は何か言いかけたが、書類を置いて立ち上がった。合鍵を返してとは、そのときも言えなかった。扉が閉まると、麦が澄江の足元へ寄り、取り戻したリードの匂いを嗅いだ。

翌日の水曜日、勤務先のマンションで交代要員が来ず、澄江は予定より二時間遅くまで残ることになった。管理会社の担当者から説明を受けたときには、麦の散歩時刻を過ぎていた。

夜になって帰宅すると、麦は玄関で待っていた。吠えもせず、壁に戻されたリードを見上げている。その姿に急かされるように散歩へ出て、戻ってから薬を与えると、麦はようやく水を飲んで横になった。

今日は帰れた。けれど急病なら、災害なら、誰が麦に薬を与えるのか。孝之のしたことは許せなくても、自分の備えが十分だったとは言えない。

何の助けもいらない、と言い切った声を思い出し、澄江は食卓で手を組んだ。必要なのは助けをなくすことではなく、誰に、どこまで任せるかを自分で決めることなのだと思った。

木曜日の夕方、澄江は同じマンションの坂井清子に付き添ってもらい、近所でペットシッターをしている原田奈緒の事務所を訪ねた。紙には麦の散歩時刻、薬の量、動物病院の連絡先、ひと月に出せる金額を書いてきた。

奈緒は一項目ずつ確認し、週一回の散歩代行と見守りを組み合わせたプランを示した。決めた時刻までに澄江から連絡がなければ、まず電話をかけ、応答がなければ契約用の鍵で訪問する。鍵を使った日時と麦の状態は、必ず記録に残すという。

「緊急連絡先は、近い方とご家族の二段階にできます。ただし、近い方が日常の世話まで引き受ける必要はありません」

清子はうなずいてから、澄江をまっすぐ見た。「二番手の連絡先にはなるよ。でも毎日の散歩や薬まで、いつでも代われるとは約束できない。それでいいなら引き受ける」

「それでいいの。できないことまで頼んだら、長くは続かないもの」

澄江は清子の限界も紙に書き留めた。奈緒が応答を確認し、必要なら訪問し、その後に清子、最後に孝之へ連絡する。善意だけに寄りかからない役割分担が、少しずつ形になった。

金曜日の午後、澄江は勤務先の管理事務所で担当者に相談した。週四日の勤務に短時間の固定勤務を一日加え、その代わり、突発的な残業が生じる場合はできるだけ早く知らせてもらうことになった。

「無理に長く残るより、決まった短時間を増やすほうが体にも予定にも合います」

担当者の言葉に、澄江はうなずいた。働けると強がるのではなく、続けられる範囲を決めて働く。その追加収入なら、見守り料金を払っても通院の予備費を残せた。

夜、自宅の食卓に勤務表と家計の表を並べ、奈緒と契約内容を確認した。鍵を使うのは定時連絡に応答がない場合と、事前に頼んだ散歩代行のときだけで、訪問後は記録を残す。緊急時の連絡順も明記し、合鍵は孝之から返してもらったあとで預けることにした。

次の日曜日の午後、澄江は孝之を自宅へ招いた。食卓には勤務表、見守り契約書、麦の世話の手順、緊急連絡先を順に並べた。麦は二人の間を見てから、澄江の椅子のそばで伏せた。

「この前、何の助けもいらないと言ったけれど、あれは違った。私にもできないときはある。だから散歩と見守りは原田さんに頼んで、坂井さんには緊急連絡の二番手をお願いした」

孝之は家計の表を手に取り、追加勤務の欄と見守り料金を見比べた。「そこまでして、ここにいたいの」

「ここで麦と暮らしたい。ただし、何でも一人でできるふりはしない。できないところを誰に任せるか、その条件は私が決める」

澄江は、週に一度、決まった時刻に電話をすると約束した。重大なことが起きたときの最終連絡先にもなってほしいと頼んだあと、孝之の顔を見た。

「その代わり、合鍵を返して。あれは緊急時のために預けた鍵で、私の暮らしを決めるための鍵じゃない」

孝之はしばらく黙っていた。やがてポケットから鍵を出し、食卓の上に置いた。

「入居相談は取り下げる。譲渡の相談も断るよ。心配しすぎたからって、勝手にしていいことにはならなかった」

澄江は鍵を握りしめず、書類の横に置いたままにした。「心配してくれることまで断るつもりはないの。電話には出るよ」

翌週の追加勤務日、澄江は返してもらった合鍵を契約用の封印袋に入れ、自分の手で奈緒に預けた。奈緒は封印番号を記録し、使用条件をもう一度読み上げた。

夕方、勤務を終えて帰ると、麦は散歩を済ませて穏やかに眠っていた。卓上の訪問票には、歩いた時間、排泄、投薬、食欲の状態が整った字で記されている。澄江は麦の背を撫でながら内容を確かめ、決めた料金を支払った。

それから孝之へ、週一回の電話をかけた。無事を告げると、孝之は麦の様子を尋ね、それ以上の指図はしなかった。

返してもらった鍵と、条件を決めて残した鍵は、同じ形をしていた。それでも澄江には、その違いがはっきり分かった。助けを選び、対価を払い、任せる範囲を決めることは、一人きりになることではない。

麦が寝返りを打ち、短い脚を澄江の足に触れさせた。澄江は訪問票を所定の場所にしまい、次の散歩時刻を確認した。自分で選び直した暮らしが、静かに続き始めていた。

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