夜勤の壁際

夕方、藤森修司は玄関先で、二泊分の荷物を背負った千夏を見送った。

「ハチの薬、夜の十一時と朝の五時だからね。歩かせるときはベルト、絶対に忘れないで」

「分かってる。シッターさんにも伝えてある」

千夏はしゃがみ、ミニチュア・ダックスフンドのハチの頭を撫でた。椎間板の手術を終えたばかりの背中にはまだ毛を剃った跡があり、後ろ脚は立つたびにかすかに震えた。

学校の集合場所へ向かう千夏の姿が角を曲がった直後、修司の携帯電話が鳴った。今夜からハチを預かる予定だったペットシッターからだった。

「すみません、急に熱が出てしまって。今夜は伺えそうにありません」

修司は大丈夫です、と反射的に答えた。電話を切ってから動物病院と別の預かり先に連絡したが、当日の夜間受け入れはどこも断られた。

夜勤まで二時間を切っていた。欠勤の連絡を入れることも考えたが、来月には正社員登用の面談がある。娘との暮らしを安定させるために、勤務に穴をあけるわけにはいかないと修司は思った。

事情を話せば済むかもしれない。しかし、預け先を一つしか用意できなかったことも、急な費用を出せる余裕がないことも知られたくなかった。

修司はハチの薬と補助ベルトをキャリーバッグへ入れた。最後にハチを毛布で包んで収めると、誰にも相談しないまま玄関を出た。

夜の物流倉庫には、昼間のようなトラックの列はなかった。修司は従業員通用口の出勤者が途切れた時刻を選び、キャリーバッグを肩に掛けた私物のように見せて警備室へ運び込んだ。

机の下は監視カメラに映りにくい。バッグに毛布を掛け、投薬時刻を携帯電話に登録すると、修司は息を吐いた。

「少しだけ我慢してくれ。いつもどおりにやれば大丈夫だ」

ハチは鳴かず、毛布の隙間から修司を見上げた。だが巡回中、術後の犬をひとりで残すことはできない。修司は排泄を兼ね、巡回経路の端で短く歩かせることにした。

深夜、最初の巡回で北側の資材通路へ入ると、修司はハチの腹の下へ補助ベルトを回した。後ろ脚を支えられたハチはゆっくり進んだが、梱包資材が積まれた壁際で急に止まった。

鼻先を床へ押しつけ、同じ場所を何度も嗅ぐ。さらに資材の隙間へ前足を伸ばしたため、修司は慌てて抱き上げた。

「駄目だ。傷が開くぞ」

近くで片づけをしていた佐伯が、その声に顔を向けた。修司の腕の中のハチを見て目を丸くしたが、問いただす代わりに資材の山を見た。

「そこ、前はもっと広い通路だったんですよ。資材を置きすぎて危ないって、何度も言ったんですけどね」

修司は犬のことを説明できず、曖昧にうなずいて巡回を続けた。

二度目の巡回でも、ハチは同じ壁際へ向かった。補助ベルトを引いても踏ん張り、資材の奥へ鼻を向けて低く鳴いた。気まぐれとは思えなかった。

修司はハチを壁から離して伏せさせ、台車に載った軽い梱包資材を一つずつ動かした。奥から緑色の非常口表示が現れ、その下に灰色の扉が見えた。

押し棒へ体重を掛けても、扉は動かなかった。見ると、押し棒と枠が後付けの金具で固定されている。扉の前を資材で塞ぎ、外からは存在さえ分からなくしていたのだ。

修司は勤務表を開いた。翌朝は多数の日雇い作業員を入れた臨時作業が予定されている。火災や事故が起きれば、慣れない作業員たちは使えない非常口へ押し寄せるかもしれない。

修司は扉と金具を携帯電話で撮影した。シャッター音に反応したハチが顔を上げ、また壁際の空気を嗅いだ。

発見から間もなく、連絡を受けた現場主任の黒田が北側通路へ来た。金具を一目見るなり、苛立ったように舌を鳴らした。

「荷崩れ防止で一時的に固定しただけだ。朝には確認する。今は資材を戻せ」

「朝は臨時作業があります。扉が開かない状態では、人を入れられません」

「安全かどうかを決めるのは君じゃない」

黒田はそう言って警備室へ向かった。修司が追うと、机の下からハチの爪が床を擦る音がした。黒田は毛布をめくり、キャリーバッグの中を見下ろした。

「犬を連れ込んだのか。無断で」

修司の喉が詰まった。黒田は毛布を戻し、声を落とした。

「安全窓口や監査に話せば、明日の作業は止まる。発見時刻を調べれば監視記録も確認されるし、君が犬を入れたことも分かるだろうな。登用審査の前だったか」

修司は何も言えなかった。

「犬の件は見なかったことにする。だから扉の件も勤務日誌に書くな。資材を戻して、予定どおり始める」

黒田が去ったあと、修司は北側へ戻り、資材を通路脇へ寄せた。非常扉を再び完全に隠すことだけはできなかった。

夜明け前、警備室の机で安全窓口宛ての報告文を開いた。非常扉の状態と発見時刻を打ち込んだが、発見の経緯で指が止まった。

犬のことを伏せれば、なぜ資材を動かしたのか不自然になる。正直に書けば、自分の違反も処分される。しかも契約警備員一人の報告では、黒田に一時的な不備だったと片づけられるかもしれない。

机の下でハチが身じろぎした。修司が毛布を開くと、ハチは鼻を伸ばして指先に触れた。

自分と千夏とハチの生活を守りたい。そのための登用だった。だが、その生活を守るために、朝から来る作業員たちを塞がれた通路へ入れてよいはずがない。

修司は報告文を保存し、休憩スペースへ向かった。佐伯は紙コップのコーヒーを手に、夜明け前の窓を見ていた。

「佐伯さん、話があります」

修司はハチを無断で持ち込んだことから話した。ハチが壁際を嗅いだこと、非常扉が金具で固定されていたこと、黒田から資材を戻して日誌に書くなと命じられたことまで、一つも隠さなかった。

「俺一人の報告だけでは、なかったことにされるかもしれません。前から通路の狭さを伝えていたことを、証言してもらえませんか」

佐伯はしばらく黙っていたが、やがて紙コップを机へ置いた。

「犬を入れたのはまずい。でも、扉を塞いだのはもっとまずい。俺のほかにも見ていた人はいます。連絡します」

修司は頭を下げた。一人で処理しようとしていたときより、怖さははっきりしていた。それでも、もう手は止まらなかった。

翌朝、臨時作業の開始前に、警備室前へ佐伯と数人の作業員が集まった。北側通路では、非常扉と固定金具が動かされないよう、そのまま保全されていた。

修司は安全窓口宛ての報告に、ハチを持ち込んだ時刻と理由、非常扉を発見した時刻、黒田から受けた指示を記した。撮影した写真を添付し、送信ボタンを押した。

佐伯たちも、通路の狭さを以前から訴えていたこと、避難経路が資材で塞がれていたことを連名で提出した。ほどなく安全窓口から、現場保全と臨時作業停止の指示が届いた。

「余計なことをしてくれたな」

駆けつけた黒田が修司を睨んだ。

「犬の持ち込みについては、処分を受けます。でも、この状態で人を入れるわけにはいきません」

修司はハチのキャリーバッグを机の下へ戻さなかった。肩に掛け、隠さないまま事情聴取を受けた。

臨時作業は延期され、多数の作業員が危険な倉庫へ入ることは避けられた。非常扉を固定した経緯と、黒田の隠蔽指示について調査が始まり、同時に修司の規則違反も正式な処分対象になった。

数日後、学校行事から戻った千夏は、居間で修司の話を聞いていた。足元ではハチが伏せ、二人の顔を交互に見上げていた。

修司は犬の無断持ち込みで戒告を受けたこと、正社員登用の審査が半年先送りになったことを告げた。黒田への調査が続いていることだけでなく、預け先を失って追い詰められ、最初は自分の失敗を隠そうとしたことまで話した。

「ごめん。生活を守るつもりで、誰にも頼らずに済ませようとした」

千夏は膝の上で両手を組み、しばらく黙っていた。

「審査が延びたのは、やっぱり困る。でも、一人で決める前に相談してほしかった。私だって、先生とか友達のお母さんに聞けたかもしれない」

「そうだな。父さんは、守ることと隠すことを同じにしてた」

修司は紙と携帯電話を食卓へ出した。二人で動物病院、親しい飼い主、夜間や緊急時に対応する預かり先を調べ、連絡先を一つずつ書き込んだ。

ハチは二人の間で上体を起こし、短い鼻先を紙へ近づけた。修司がその胸を支えると、千夏が背中に負担を掛けないようそっと撫でた。

正社員への道は半年遠のいた。それでも修司は、次に何かが起きたとき、一人で壁際へ追い詰められないための一覧を、千夏と並んで作り続けた。

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