午前一時五十分、青木玲奈はレジの現金を数え終え、金額を帳簿に記した。廃棄商品の時刻を確認し、空いた棚へ飲料を補充する。すべて手順書どおり、予定から一分も遅れていなかった。
バックヤードの壁には、昼勤推薦の条件を記した紙が貼られている。連続無欠勤、勤務規定の順守、事故報告なし。二十九歳になった玲奈にとって、昼の時間帯へ移れる機会は逃したくないものだった。
二時を少し回ると、赤毛の柴犬を連れた老人が現れた。老人は犬を店先につなぎ、迷うことなく冷蔵棚から五百ミリリットルの牛乳を一本取った。
「百六十八円です」
老人は小銭を置き、短く会釈した。玲奈も同じ角度で頭を下げた。店を出た老人は自転車のハンドルを押し、柴犬と夜道へ消えていった。
玲奈の中で、老人は「牛乳の人」、犬は「柴犬」だった。毎晩ほぼ同じ時刻に現れる、勤務表の目盛りのような客。それ以上を知る必要はないと思っていた。
翌夜、二時を過ぎても牛乳の人は来なかった。
玲奈は一度だけ時計を見たが、すぐに品出しへ意識を戻した。常連にも来ない夜はある。決められた作業を止める理由にはならない。
午前二時十七分、自動ドアの向こうに赤毛の影が現れた。柴犬だけだった。腹と脚は泥に汚れ、首輪についたリードが濡れた地面を引きずっていた。
犬は自動ドアの前で立ち止まり、玲奈を見た。それから路地へ数歩走り、振り返る。店先へ戻ってきては、また同じ方向へ進んだ。
玲奈はガラス越しに老人を捜した。自転車も、人影もない。昨夜まで崩れなかった習慣の一部だけが、切り離されて戻ってきたようだった。
午前二時十八分、玲奈は警察へ電話した。迷い犬が店に来たこと、飼い主らしい老人が毎晩立ち寄るのに今夜はいないことを伝えた。
「飼い主のお名前と住所は分かりますか」
「いいえ。毎晩二時頃、牛乳を買う方です。自転車を押して、犬を連れています」
それだけでは捜索場所を絞れないと言われた。巡回車を向かわせるので、犬を確保できるなら店で待ってほしいという返答だった。
続いて田辺店長へ電話すると、眠気を押し殺した声で指示が返ってきた。
「一人勤務なんだから、絶対に店を離れないで。警察に任せて、青木さんは店内で待機。何かあればまた連絡して」
「分かりました」
通話を切った直後、犬は路地へ走った。しかし玲奈が出てこないと分かると戻り、自動ドアの前からじっと見上げた。二度目も同じだった。
玲奈はレジへ戻り、補充予定の商品を端末に読み込ませた。通報はした。店長にも報告した。自分に許された対応は済んでいる。そう言い聞かせても、バーコードを読む手は何度も止まった。
午前二時二十八分、配送トラックが店先に止まった。深夜便の配送員が台車を押してくると自動ドアが開き、その隙間から柴犬が店内へ駆け込んだ。
犬は真っすぐ冷蔵棚へ向かった。老人が毎晩立っていた牛乳の棚の前で足を止め、鼻を鳴らす。そして玲奈を見てから、再び出入口へ走った。
牛乳の人が来ないことと、泥だらけの犬と、繰り返される振り返りが、玲奈の中で一本につながった。犬は迷っているのではない。ここへ戻ってきたのだ。
「すみません。この犬の後を追ってもらえませんか。飼い主に何かあったかもしれなくて」
配送員が近づくと、犬は身を引いた。彼が外へ出てもついていかず、玲奈が出入口の線を越えたときだけ、路地へ向かって数歩進んだ。
「あなたじゃないと駄目みたいですね」
配送員は名札を指した。
「佐伯です。一緒に行きます」
午前二時三十三分、玲奈はレジの現金と危険物を施錠した。警察と店長へ連絡した時刻を書き、臨時閉店の紙を自動ドアへ貼る。最後に鍵を回した瞬間、昼勤推薦の条件が頭に浮かんだ。
それでも玲奈は、鍵をポケットへ入れた。
「案内して」
柴犬は待っていたように走り出した。
店の裏手へ回ると、路地は細くなった。犬は泥の残る排水路脇を進み、玲奈と佐伯が離れるたびに立ち止まった。三百メートルほど先の狭い坂で、急に低い声で鳴いた。
街灯の端に、倒れた自転車が見えた。その下に、人の脚があった。
「大丈夫ですか」
玲奈は老人のそばに膝をついた。呼びかけに目が動き、呼吸もある。片脚は自転車と路面の間に挟まれていた。
「佐伯さん、自転車は動かさないでください。救急車を呼びます」
玲奈が一一九番へ状況を伝えている間、柴犬は老人の手元へ鼻を寄せた。老人は苦しそうに息を吐き、犬の頭へ指を触れた。
「マメ……店まで行ったのか」
「この子、マメっていうんですね」
「ああ。私は黒田、正一です」
毎晩目の前に立っていた人の名前を、玲奈はそのとき初めて知った。黒田正一。柴犬はマメ。名前を得た二人は、もう「牛乳の人」と「柴犬」ではなかった。
午前二時四十分、救急隊から、路地の入口で誘導してほしいと連絡が入った。道は狭く、幹線道路からも見つけにくい。玲奈が立ち上がろうとすると、店の方角から懐中電灯の明かりが近づいてきた。
「コンビニの方ですか」
現れたのは、深夜によくコーヒーを買うタクシー運転手だった。閉店の張り紙と路地の明かりに気づき、様子を見に来たのだという。
「救急車が来ます。でも入口が分かりにくくて」
「私、この辺りは分かります。幹線道路まで出ます。三浦です、三浦智子」
三浦はすぐに踵を返した。佐伯は黒田のそばへ残り、「救急車はもう来ます」と声をかけ続けた。玲奈はマメのリードを握り、通報内容を確認しながら救急隊を待った。
やがてサイレンが近づき、三浦のタクシーのハザードランプが路地の入口で点滅した。救急隊はその明かりを目印に入り、黒田の脚を固定して自転車の下から救い出した。
担架へ移された黒田は、マメを見てから玲奈へ目を向けた。
「ありがとう」
玲奈は返事の代わりに、握っていたリードを少し持ち上げた。マメは搬送される黒田を追おうとしたが、玲奈の足元で踏みとどまった。
午前三時五分、到着した警察が現場とマメを引き継いだ。店へ戻る道で、玲奈たちは改めて名乗り合った。
「青木玲奈です」
「佐伯亮です」
「三浦智子。いつもコーヒーを買ってるのに、名前も知らなかったね」
臨時閉店の紙の前で、三人は小さく笑った。毎晩顔を合わせていた人たちが、ようやく一人ずつの人間になった気がした。
午前七時半、勤務を終えた玲奈は事務室で事故報告書を書いた。閉店時刻、警察と店長への通報時刻、施錠した場所、救助までの経緯。一つも省かず、事実だけを並べた。
向かいに座った田辺店長は、報告書を最後まで読んでから眼鏡を外した。
「人を助けたことを責めるつもりはない。青木さんが行かなければ、発見は遅れていたと思う」
そこで言葉を切り、推薦条件の紙へ目をやった。
「ただ、一人勤務中の無断閉店と持ち場離脱は、規定違反として記録しなければならない。今期の昼勤推薦からは外します」
胸の奥が冷えた。積み重ねてきた無遅刻無欠勤が、急に遠いものになった。それでも玲奈は、店長の指示に背いたのは犬でも佐伯でもなく、自分だと分かっていた。
「分かりました」
玲奈は事故報告書の署名欄へ、自分の名前を書いた。線は震えなかった。
一週間後、午前五時半。松葉杖をついた黒田が、脚に包帯を巻いたまま店へ来た。傍らのマメは、今度はきれいなリードにつながれていた。
黒田はいつもの牛乳を一本買い、地域掲示板の前でカードへ名前と連絡先を書いた。
「近所で何かあったときは、ここへ連絡してほしい。私にできることならするから」
事情を知った佐伯も、配送の合間にカードを残した。三浦は電話番号の上へ目隠しをつけ、緊急時に連絡してよい時間を書き添えた。顔だけだった常連たちの名前が、掲示板に少しずつ増えていった。
玲奈はその善意を、そのまま貼り続けることにはしなかった。本人の同意、閲覧できる人の範囲、連絡先の保管方法、緊急時の手順。それらを定めた正式な地域連絡欄の提案書を、事務室の机で書き始めた。
午前六時、窓の外が青白く明るんだ。規則を守るだけでは届かない命がある。けれど規則の外へ出るなら、正しかったという結果だけでなく、失うものまで引き受けなければならない。
玲奈は提案書の末尾に署名した。店先では黒田が自転車を押し、マメがその隣を歩いている。佐伯が手を上げ、三浦がタクシーの窓を開けて応えた。
名前も知らなかった人々は、もう、いつもの客ではなかった。玲奈が一歩踏み出した夜の先で、彼らは互いを気にかける隣人になっていた。
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