二つの玄関

金曜日の夕方、由里は新居の子ども部屋に立ち、机の端をもう一度壁と平行に直した。九歳の晴人には少し大きい椅子、青い寝具、新しい鉛筆とノート。台所には晴人用の茶碗を置き、その隣には柴犬のタロのために買った食器を並べた。

二年間の空白は、必要なものを揃えれば埋まるように見えた。借金を整理するため遠方で働き続け、ようやく地元へ戻ってきたのだ。あとは晴人とタロを迎えれば、母親としての暮らしが元に戻る。

机の上で携帯電話が震え、会社からの通知が表示された。遠方への転勤を条件にした昇進で、返答期限は二週間後。収入は大幅に増えると記されていた。

由里は画面を閉じず、整えた部屋を見回した。先に同居を始めてしまえばいい。親子の形さえ取り戻せば、そのあと再び離れて働くことになっても、今度は母親として認められたままでいられる。昇進を断る必要はないと思った。

翌朝、由里は空の段ボール箱を抱えて香織の家を訪ねた。居間で晴人に新居の写真を見せると、晴人は机や寝具を一枚ずつ眺めた。タロは由里の手の匂いを嗅いだあと、晴人の足元へ戻った。

「今日から向こうで暮らそう。荷物はあとで何度かに分けて運べばいいから」

晴人は写真から顔を上げ、少し遅れてうなずいた。「うん。きれいだね」

香織は、由里が持ってきた段ボール箱に手を触れなかった。「今日は一泊だけにしない? 学校のことも通院のこともあるし、急に全部変えないほうがいい」

「私の子どもよ。暮らすのに、どうして許可がいるの」

「許可の話じゃない。晴人が慣れる時間の話をしてるの」

由里は言い返しかけたが、晴人が膝の上で両手を握っているのを見た。ここで争えば、喜ぶべき日に水を差すのは香織ではなく自分になる。一泊分だけ、と由里は固い声で受け入れた。

晴人は着替えと学校の宿題を鞄に入れた。タロの餌も一日分だけ袋に詰められ、段ボール箱は空のまま香織の家に残った。

その日の午後、由里は新しい文具を晴人に渡し、好物の夕食を作った。晴人は何度も「すごい」と言い、タロにも新しい食器を見せた。しかし宿題を広げると、鉛筆を持ったまま由里を見た。

「宿題って、何時からやる?」

「好きなときでいいよ。ここでは自由にしていいから」

晴人はうなずいたものの、書き始めなかった。食事が終わると、今度は風呂が先か、明日の持ち物を揃えるのが先かと尋ねた。由里がどちらでもいいと答えるたび、晴人の動きは遅くなった。

夜になっても、タロは用意した寝床に入らなかった。玄関の前に伏せ、廊下で物音がするたびに耳を立てて起き上がる。晴人は子ども部屋から毛布を持ってきて、その隣に座った。

「タロ、ここも家だよ」

そう言う晴人の声は、犬に聞かせるというより、自分に言い聞かせているようだった。由里は一緒に寝ようと誘ったが、晴人はタロが落ち着くまでここにいると答えた。深夜を過ぎても、玄関の灯りは消せなかった。

日曜日の朝、晴人はほとんど手をつけていない朝食の前で、膝に手を置いた。

「お母さんが嫌いなわけじゃないよ」

その前置きだけで、由里の胸は狭くなった。

「でも、今は伯母ちゃんの家に戻りたい」

由里はすぐには答えられなかった。眠れなかった苛立ちと、拒まれた痛みが、考えるより先に口を動かした。

「香織に、そう言えって言われたの?」

晴人は目を伏せた。否定も説明もせず、黙ったままタロの背を撫でた。その沈黙を見ても、由里は自分の問いを引っ込められなかった。

荷物をまとめ、三人で香織の家へ戻った。玄関が開くと、タロは由里の手から抜けるように中へ入り、いつもの場所で体を震わせた。

「晴人に何を言ったの」

玄関先で、由里は香織に詰め寄った。「最初から戻りたいと言わせるつもりだったんでしょう」

香織は晴人を家の中へ促してから、由里を見た。「私は言わせてない。あの子が安心できる場所を奪うことと、あなたが母親に戻ることは同じじゃない」

「奪うって何よ。返してもらうだけじゃない」

言い切った途端、家の奥で物音が止まった。晴人が聞いている。由里にもわかったが、謝る言葉は出てこなかった。

昼になり、由里はそのまま帰ろうとした。だが、散歩の気配を察したタロが玄関へ来て、晴人も黙って綱を持った。由里はしばらく迷ったあと、一緒に歩き出した。

晴人は学校までの道を進み、角に立つ見守りの人へ自然に頭を下げた。近所の友達の家を指し、朝はそこで合流すると説明した。タロは途中で何度も足を止め、犬仲間が通る場所では、相手が来ないか待つように道の先を見た。

由里の知らない道ではなかった。それでも、晴人の毎日として見るのは初めてだった。どこで立ち止まり、誰に挨拶をし、どの角を曲がれば学校へ着くのか。その一つ一つを、晴人は迷わず知っていた。

夕方、香織の家へ戻ると、晴人はランドセルを決まった位置に置いた。その脇には宿題の確認表があり、学校からの連絡物が日付順にまとめられていた。棚には通院日と薬の記録が置かれ、香織が次の予定を書き加えていた。

由里はその文字を目で追った。晴人が熱を出した日も、薬が変わった日も、学校へ提出物を持たせた日も、自分は遠くにいた。電話で心配し、金を送り、戻るために働いていた。それでも、日々を途切れさせなかったのは香織だった。

新しい机も寝具も、その二年間を消すことはできない。血のつながりを掲げて暮らしを上書きしようとした自分は、晴人を迎えようとしたのではなく、晴人が築いた安心を取り上げようとしていた。

「さっきのこと、悪かった」

由里は晴人の前で言った。「言わされたなんて決めつけて、ごめん」

晴人はすぐには答えなかった。けれど、黙ったまま部屋を離れることもしなかった。由里はそれ以上の返事を求めず、香織にも頭を下げて家を出た。

一週間後の平日、由里は職場で昇進を辞退する返答を送った。回答期限まではまだ日があった。収入の額を見れば指が止まりそうになったが、遠方へ行けば、晴人の日常を再び香織に任せることになる。母親である形だけを先に得ようとした考えを、もう続けることはできなかった。

その夕方、由里は香織の家の食卓に予定表を広げた。昇進を断ったことは告げたが、それを晴人に選択を迫る材料にはしなかった。

「まず週に二回、私が夕食を作る。塾や通院の送迎も、できる日じゃなくて、決めた日に担当したい。泊まるのは、晴人が泊まりたい週だけでいい」

由里は予定表の一か月後に丸をつけた。「ここで一度見直そう。嫌だったら減らしていいし、やり方を変えてもいい」

晴人は表を見て、「夕食は何曜日?」と尋ねた。

「火曜と木曜にしたい。でも、今の予定に合わないなら教えて」

香織が通院日と塾の時間を確認し、晴人も木曜日なら一緒に食べられるとうなずいた。由里は香織へ向き直った。

「今までの手順を教えてほしい。私が知らないまま勝手に変えないようにする」

香織はしばらく由里を見てから、予定表を引き寄せた。「じゃあ、火曜日は宿題を先に終わらせるところから。木曜日は塾の迎えに遅れないで」

数週間後、由里は決めた曜日の夕食と送迎を一度も欠かしていなかった。タロの通院にも付き添い、診察の内容を香織と一緒に記録した。予定を変える必要があるときは、先に晴人と香織へ確認した。

ある平日の夕方、香織は台所で学校行事の予定表と診察記録を由里に渡した。

「学校と動物病院の連絡先に、あなたの名前も入れておいた。次の学校行事は、この日」

並んだ名前を見ても、由里は許されたとは思わなかった。これから連絡を受け、予定を覚え、必要なときに動く責任が加わったのだと受け取った。

晴人は二人の間に広げられた予定表を覗き込んだ。話が終わると翌月のカレンダーを取り、自分で一つの日に印をつけた。

「この土曜日、向こうに泊まってもいい?」

「もちろん」と由里は答えたあと、「戻る時間は伯母ちゃんとも決めよう」と付け加えた。

さらに数週間後の土曜日、由里は先に預かっていたタロと散歩をし、約束の時刻に香織の家へ着いた。玄関には晴人が立ち、片手に二つの鍵を持っていた。一つは香織の家、もう一つは由里の新居の鍵だった。

泊まりの荷物は用意されていたが、晴人は靴を履かず、二つの鍵を見比べていた。タロは急かす様子もなく、由里の足元で鼻を鳴らした。

以前なら由里は、行こう、と声をかけただろう。自分の家を選ばせる言葉を重ね、迷いを消そうとしたはずだった。由里はしゃがんでタロの背を撫で、何も言わずに待った。

やがて晴人は由里の新居の鍵を握り、香織の家の鍵を鞄へしまった。

「今日はお母さんのところに泊まる。明日の夕方には戻るね」

香織がうなずくと、晴人は自分で靴を履き、玄関を出た。由里はその選択を勝ち取ったものとして数えなかった。次に晴人が香織の家を選ぶ日も、同じ場所で、同じように待てばいい。

三人と一匹が歩き出したあと、背後で香織の家の玄関が閉まった。晴人の鞄の中では二つの鍵が触れ合っていたが、どちらかを捨てる音はしなかった。

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