噛まない店

初夏の平日の午前、駅前のペットサロンでは、乾燥機の音とバリカンの振動が絶え間なく続いていた。藤岡航は小型犬の脇へ手を差し入れ、皮膚を引かない角度で毛先だけを整えた。犬が顔をそむければ刃を止め、呼吸が戻るのを待ってから、残りを手早く仕上げた。

時計を見ると、予定より五分早い。航が施術台を消毒しようとすると、林店長が予約表を指で叩いた。

「次、もう入れて。五分空いたなら五分前倒しできるだろ」

「記録と、器具の消毒がまだです」

「記録はあとでまとめて。消毒も必要なところだけでいい」

航は返事の代わりに消毒液を布へ吹きつけた。必要なところだけ、という言葉に従い、台の縁を一周拭くはずの手を途中で止める。施術記録には犬の様子を書く欄があったが、「異常なし」とだけ入力して次の準備に移った。

短い休憩に入ると、航は携帯電話で預金残高を確かめた。目標額まで、あと半年分の給料と賞与があれば届く。店長の指示に疑問を挟まず、一頭につき五分ずつ縮めていけば、自分の店を持てるのだと航は言い聞かせた。

同日の午後、佐伯美和がミニチュアシュナウザーのロイを連れてきた。ロイは常連で、いつもなら受付から自分でトリミング室へ入ろうとする犬だった。

「今日もいつもどおりでお願いします」

佐伯からリードを受け取った航は、ロイを施術台へ乗せた。背中を撫で、胸の下へ手を回したとき、重心が左へ偏っていることに気づいた。右前脚に触れると、ロイは肩から背中までを板のように固くした。

航はいったん手を離し、別の角度から指先を近づけた。ロイは顔をそむけ、それでも手が近づくと白目を見せた。爪切りの姿勢を取らせようとした瞬間、低い唸り声とともに唇が上がり、歯が見えた。

普段のロイは、爪切りを好みはしなくても、ここまで拒まない。航は右前脚を腹の下へ隠そうとする動きを見て、手を止めた。噛み癖ではなく、痛みか、それに結びついた強い恐怖だと考えた。

林店長を呼び、航は声を抑えて説明した。

「右前脚だけ反応が違います。飼い主さんに連絡して、今日は中止したほうがいいと思います」

林店長は時計を見た。

「シュナウザーは頑固なのがいる。噛み癖だろ。口輪をして、予定時間で仕上げて」

「でも、いつものロイと違います。痛みがあるかもしれません」

「診断できるのか。できないなら予約どおりやって。後ろも詰まってる」

航は口を開いたまま、言葉を出せなかった。ここで逆らえば、次の勤務表を減らされるかもしれない。半年後の残高が遠のき、店を持つ計画そのものが崩れるかもしれなかった。

航は棚から口輪を取り出した。ロイの鼻先へ通し、締めすぎない位置で留める。ロイは顔を振ったが、航は首元を支え、作業を再開した。

数分後、航が右前脚を下から支えようとした瞬間、ロイの呼吸が急に荒くなった。口輪の下から短い息が漏れ、全身が強くねじれた。保定していた腕をすり抜け、後肢が施術台の縁から外れた。

航はバリカンを床へ落とし、両腕でロイの胴を抱き留めた。腹を台へ戻すと、ロイは細かく震えながら右前脚を腹の下へ隠した。あと一瞬遅ければ、頭から落ちていた。

「落ちなかったんだから大丈夫だ。早く続けろ」

林店長の声を聞きながら、航は口輪を外した。ロイを抱えて床のケージへ移し、水を置く。扉を閉める手は震えていたが、再び台へ乗せる気はなかった。

「続けません」

その日の夕方、林店長は未完成の箇所を指し、目立つところだけ整えて引き渡すよう示した。転落しかけたことまで話せば飼い主を不安にさせる、と低い声で念を押した。

航は受付の電話を取り、自分の判断で佐伯へ連絡した。迎えに来た佐伯は、途中で止まったロイの毛を見るより先に、ケージの中で伏せる様子を見た。

「右前脚に触れたとき、普段とは違う拒否がありました。痛みの可能性を考えましたが、口輪を使って再開しました。そのあとロイが激しく身をよじって、施術台から落ちかけたので中断しました」

佐伯の顔がこわばった。航は逃げずに、口輪を使ったことも、自分が作業を再開したことも、起きた順に説明した。

「右前脚をかばっています。できれば今日、動物病院で診てもらってください。仕上げより、そちらを優先してほしいです」

佐伯はケージから出たロイを抱き上げた。ロイは右前脚を浮かせるようにして、佐伯の腕へ体を預けた。

「分かりました。すぐ連れていきます。途中でも構いません」

航は料金を受け取らず、施術記録に右前脚への接触反応、口輪の使用、転落しかけた経緯、中断した時刻を残した。保存ボタンを押すと、林店長は何も言わず事務室を指した。

閉店後、乾燥機の音が消えた事務室で、林店長は航へ解雇を通告した。店の判断を飛び越えて客へ説明し、必要以上に不安を与えて信用を傷つけたという理由だった。

「顧客名簿を複製するなよ。常連に連絡して、自分の店へ誘うのもなしだ」

航は机の端に置かれた予約表を見た。謝って、説明の仕方が悪かったと認めれば、撤回の余地があるかもしれない。半年だけ耐えるという計画が、喉元までせり上がった。

それでも、続けるべきだったとは言えなかった。

「名簿は持ち出しません。誰にも連絡しません。でも、拒否している犬には続けません」

林店長は答えなかった。航は自分のはさみと私物だけを箱へ入れ、顧客データの入った端末には触れずに店を出た。駅前の明かりを背に歩きながら、失った給料を計算しようとしたが、最後に口にした言葉だけが何度も頭へ戻った。

解雇から二週間後、航は予定していた店舗契約を諦めた。貯金の一部を使い、折り畳み式の施術台、浴槽へ接続できる器具、乾燥機、消毒設備をそろえた。郊外の小さな貸しスペースを予約日のみ借りる形なら、残った資金でも始められた。

一般向けのウェブ広告を作る画面で、航は料金や所要時間より先に方針を書いた。

「犬が拒否したら中断します。痛みが疑われる場合は受診を勧めます。短時間での完成は約束しません」

強すぎる表現に見えて、いったん「中断することがあります」と直した。だが、それでは店長の前で言えなかった頃と同じだと思い、元へ戻した。以前の店の顧客名簿は使わず、常連客には誰一人連絡しないまま、広告を一般公開した。

開業から三週間後の午前、貸しスペースの扉が開いた。予約名の佐伯美和を見た航は、抱えられたロイと交互に見て、一瞬言葉を失った。

「広告を見つけました。藤岡さんだと思って」

佐伯はそう言ってから、ロイを床へ下ろした。

「右前脚、指間炎でした。治療は終わっています。あの日、止めてもらってよかったです」

航は、自分の判断が間違っていなかったことを知った。ただ礼を言い、すぐにはロイを施術台へ乗せなかった。床に道具を置き、ロイが自分から近づいて匂いを嗅ぐのを待った。

右前脚へ触れる前にも、航は手を止めた。ロイは一度手元を見てから鼻先を寄せ、やがて静かに脚を預けた。航はその重みを手のひらで受け、予約表の余白へ「嫌がったらここまで」と書いた。

「途中で終わるかもしれません。それでもいいですか」

佐伯はうなずいた。

「それでお願いします」

航はバリカンの音を一度ロイに聞かせ、体が固くならないことを確かめた。それから急がず、最初の一刈りを入れた。小さなスペースには次の予約も、店を埋める客の列もなかったが、航はもう、残り時間を見なかった。

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