桜の根は見えない

三月上旬の午前、市役所道路整備課には、桜祭りに伴う規制計画や工事の工程表が積み上がっていた。井坂亮介は、その端に置かれた歩道補修の報告書を開き、委託業者から送られた写真を順に見た。舗装が持ち上がり、継ぎ目には靴先が掛かるほどの段差ができている。

現地写真には、隆起した舗装のすぐ脇に太い桜の幹が写っていた。亮介は過去の類似事例を参照し、根の成長による舗装隆起と判断した。伐採後に舗装を打ち直せば、四月の祭りまでに十分間に合う工程だった。

「掘削調査は入れないのか」

報告書を読んだ大沢課長が尋ねた。亮介は、現地で舗装の状態を確認していないことを意識しながら、写真と補修履歴で原因は判断できると答えた。

「追加調査を挟むと、伐採業者の手配が祭りに間に合いません。安全対策を優先するなら、この工程が確実です」

大沢は決裁欄に印を押した。

「期限どおり終われば、次の評価にも書ける。君は昇進候補なんだから、住民対応も含めてきれいに収めてくれ」

四十一歳になり、亮介は同年代の職員が係長に上がるのを何人も見送っていた。今回の工事は規模こそ小さいが、祭り前の案件を滞りなく処理した実績になる。彼は報告書を閉じ、桜一本の伐採と歩道改修を行政方針として住民に知らせる準備を始めた。

三月中旬の夕方、桜並木沿いの町内会館で説明会が開かれた。亮介はスクリーンに舗装の写真を映し、根が路面を押し上げているため、歩行者の安全確保には伐採が必要だと説明した。会場の住民たちは、祭り前に工事を終えるという言葉より、赤い印を付けられた一本の桜を見つめていた。

「歩道が危ないことは、私も知っています」

前列に座っていた高瀬文子が言った。膝の上には、昔の入学写真が数枚重ねられていた。

「この桜の前で、息子も孫も写真を撮りました。だから危険をそのままにしろとは言いません。ただ、本当に根が原因なのか、切る前に確かめていただけませんか」

別の住民からも、舗装を一部外して調べたのか、近くの排水設備に問題はないのかと質問が出た。亮介は用意した資料のページをめくり、写真と過去の事例から総合的に判断したと繰り返した。

「今から追加の掘削調査を行えば、祭り前の完了は困難になります。段差による事故を防ぐため、決定した工程で進める必要があります」

それは間違いではない、と亮介は自分に言い聞かせた。危険な歩道を早く直すことも行政の責任であり、全員が納得するまで工事を止めていては仕事にならない。反発の残る会場で質疑を打ち切り、予定どおり伐採すると告げた。

説明会を終えて外へ出ると、薄暮の桜並木を高瀬が歩いていた。細いリードの先では、茶色のトイプードルが小刻みに足を運んでいる。亮介が後ろから追いつくと、高瀬は軽く会釈した。

「モモは、ここへ来るといつもこうなんです」

伐採予定の桜まで数歩というところで、モモが急に立ち止まった。鼻先を下げて舗装の継ぎ目を見たあと、そこを避けるように車道側へ回ろうとする。高瀬はすぐにリードを引き、犬を自分の足元へ戻した。

亮介は初めて、資料の中の段差が何を引き起こすのかを具体的に見た。小さな犬が避ければ飼い主も引かれ、子どもなら勢いのまま車道へ出るかもしれない。赤い丸で囲んだ写真には、その動きまでは写っていなかった。

彼が継ぎ目に靴を載せると、舗装の一部がかすかに沈んだ。根に押し上げられているなら硬く支えられているはずだった。さらに足で確かめると、幹側だけでなく、排水桝の周囲にも鈍い空洞音が続いていた。

「明日の伐採は、いったん止めます」

亮介が言うと、高瀬は喜ぶ代わりに、沈む舗装を見た。

「止めるだけでは、危ないままですね」

「調べます。今度は、下まで」

翌朝、亮介は歩道を通行止めにし、施工業者へ限定的な試掘を指示した。舗装を切って外すと、桜の根は確かに歩道側へ伸びていたが、隆起箇所の全体を押し上げるほどではなかった。排水管の脇をさらに掘ると、締め固められているはずの土が途切れ、その下に大きな空洞が口を開けていた。

「ここは埋め戻しが足りていません。上だけ舗装しても、いずれまた沈みます」

施工業者の説明を聞きながら、亮介は空洞と根の位置を何枚も撮影した。桜を切れば作業はしやすくなるが、地盤の不安定さは残る。原因を取り除かないまま、見えている木だけを取り除くところだった。

午後、亮介は市役所の資料庫で過去の工事記録を調べた。数年前の排水管補修図面を広げると、施工区間は空洞の位置と一致した。必要な埋め戻し量の確認記録だけが欠けており、完了写真にも舗装後の路面しか写っていなかった。

桜を残すなら、排水管周辺を再施工し、根を避ける歩道構造へ設計を変えなければならない。祭り前の完成は不可能だった。そして、伐採判断の前に試掘をしなかった自分の経緯も、工事記録に残せば明らかになる。

同日の夕方、亮介は空洞の写真と古い図面を持って課長室へ入った。大沢は一通り目を通すと、机の上で指を組んだ。

「表向きは、根による危険対策のままでいいんじゃないか。予定どおり伐採して、そのあと空洞も埋める。それなら安全にはなるし、祭りにも間に合う」

「根が主因ではありません。伐採理由が成り立ちません」

「今さら撤回すれば、最初の調査が不十分だったと公表することになる。過去の工事まで問題にされるぞ」

大沢は声を荒らげず、事務上の損失を数えるように言った。祭りの延期、業者との再調整、住民への謝罪、記録の検証。その最後に、亮介の昇進候補からの除外を付け加えた。

「君のためにも言っている。木を一本切って、危険な箇所を全部直せば、実害は残らない」

亮介は机上の写真を見た。暗い空洞の縁に、細い根が一本だけ伸びていた。根が見つかれば原因にできると考え、住民の反対を工期を乱す面倒事として処理したのは、ほかの誰でもない。

「実害が残らなくても、誤った判断は残ります。私が現地確認を省いた経緯も記録に入れます。伐採を撤回し、設計変更と再説明会を担当させてください」

大沢はしばらく黙ったあと、昇進候補者の資料を引き出しへしまった。

三月下旬の夜、同じ町内会館で再説明会が開かれた。亮介は前回と同じスクリーンに、今度は試掘した地中の写真を映した。空洞、排水管、桜の根を別々の色で示し、舗装の隆起と沈下の主因は過去の工事区間に残った空洞だったと説明した。

「私は現地で掘削確認をせず、写真と類似事例だけで桜の根を原因と断定しました。伐採を急いだ判断は誤りでした。申し訳ありません」

会場には、前回とは異なる沈黙が落ちた。後方に座る大沢は口を挟まなかった。亮介は祭りを一週間延期して規模を縮小し、排水管周辺を埋め戻したうえで、根を避ける幅と勾配に歩道を設計し直す案を示した。桜は伐採せず、安全確保に必要な枝の整理だけにとどめる。

「謝って終わりでは困ります」

高瀬が言った。

「地面の下は、また見えなくなります。今後はどうやって安全だと確かめるんですか」

「定期的に路面の沈下を測定し、排水桝に点検口を設けます。測定記録と補修履歴は住民にも公開します。異常が出た場合の現地確認も、手順として残します」

住民から工事中の通行経路や祭りの変更について質問が続いた。亮介は決定済みの工程を繰り返すのではなく、一つずつ答えた。説明会の終わりに、延期と縮小、排水設備の補修、歩道の再設計、桜の保存が了承された。

亮介は昇進候補から外れた。それでも工事の担当からは外れず、空洞の埋め戻しから歩道の完成まで現地に通った。桜の根を傷つけないよう施工範囲を調整し、完成後は維持管理の担当として沈下測定を引き受けた。

翌年四月の朝、改修を終えた桜並木は満開を迎えていた。根を避けて幅と勾配を調整した歩道は平らに続き、排水桝の脇には新しい点検口が収まっている。新入生を連れた家族が、あの桜を背景に並んでいた。

高瀬がモモを連れてやって来た。モモは立ち止まることなく歩道を進み、桜の前で新入生の家族を避けて静かに端へ寄った。高瀬は亮介に気づくと、測定器具へ目を向けた。

「今年も、写真に間に合いましたね」

亮介は桜の下に立つ親子を見た。写真に写るのは花と笑顔で、地中の埋め戻しも、点検口の意味も、彼が誤った報告書を書いたことも写らない。

「見えないところも、毎年確かめます」

高瀬はうなずき、モモとともに平らな歩道を歩いていった。亮介は測定器具を路面に当て、記録表へ数値を書き込んだ。季節の記憶を守るとは、同じ景色を変えずに置くことではなく、誤りを認め、安全な形で次の春へ渡すことなのだと、ようやく理解していた。

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