町内ピクニック当日の早朝、安西亮のアパートの台所には、揚げ物と煮物の匂いが満ちていた。もっとも、亮が揚げたり煮たりしたわけではない。駅前スーパーで買ってきた唐揚げ、コロッケ、煮物、卵焼きを、重箱へ移しているだけだった。
唐揚げの下に市販の飾り葉を敷き、コロッケは斜めに切って断面を見せる。煮物は小さな仕切りに収め、卵焼きには爪楊枝の旗を立てた。料理はできなくても、商品を魅力的に見せることなら営業職の亮にも自信があった。
店名入りの包装と値札シールはまとめて捨てるつもりだったが、玄関の呼び鈴が鳴った。亮は慌ててそれらを保冷バッグの底へ押し込み、その上に保冷剤を載せた。
「おはよう。もうできたの?」
玄関に立っていた千夏は、重箱をのぞき込んで目を丸くした。離婚後、月に二回しか会えない娘のその顔を見て、亮は胸を張った。
「もちろん。朝五時起きで全部作った」
「お父さんが、唐揚げを?」
「二度揚げだ。低温で中まで火を通してから、高温でからっと仕上げる。卵焼きも出汁の配合にこだわった」
それは包装に書かれていた商品説明を覚えただけだった。千夏は疑うように亮の顔を見たが、やがて重箱へ視線を戻し、小さく「すごいね」と言った。
その一言がうれしくて、亮は引き返せなくなった。二人は重箱と、包装を隠した保冷バッグを持って、町内公園へ向かった。
同日午前、町内公園では親子弁当大会の受付が始まっていた。色とりどりの敷物が芝生に広がり、審査台には参加者の弁当が次々と並べられていく。
「参加部門は、完全手作りでよろしいですか」
町内会長に聞かれ、亮は一瞬だけ保冷バッグを見た。それから営業先で契約書に判をもらうときの笑顔を浮かべた。
「はい。親子で楽しむ、完全手作り弁当です」
親子で作ったのは事実ではなかったが、親子で楽しむ予定ではある。そんな苦しい理屈を胸の中で足しながら、亮は重箱を審査台へ置いた。
ふたを開けると、周囲から感心した声が上がった。亮は勢いづき、唐揚げは二度揚げ、煮物は出汁をじっくり染み込ませ、卵焼きは甘さを控えていると説明した。
「安西さん、料理がお得意だったのねえ」
隣家の野田美代子が、フレンチブルドッグのボンを連れて近づいてきた。亮が普段、コンビニ袋を提げて帰宅する姿を何度も見ているだけに、その目には驚きより疑いが浮かんでいた。
「隠れた特技というやつです」
亮が笑うと、千夏も少しだけ誇らしそうにした。その横でボンは鼻をひくつかせ、丸い体ごと亮の保冷バッグへ向きを変えた。
審査開始前、亮たちは審査台脇の休憩スペースへ移った。ボンは保冷バッグの前にどっかり座り込み、ふごっ、ふごっと鼻を鳴らした。
「ボン、だめよ。人間のお弁当は食べられないでしょう」
野田がリードを引いても、ボンは短い脚を踏ん張った。亮がバッグをベンチの反対側へ動かすと、ボンも回り込み、またその前へ座った。
「その中、何が入ってるの?」
千夏に聞かれ、亮はバッグの口を押さえた。ここで包装だと言えば、今朝の話まで崩れてしまう。
「予備の保冷剤だけだよ。ほら、今日は暑くなりそうだから」
また一つ、嘘が増えた。亮は注意をそらそうと重箱を指し、飾り葉の緑が全体を引き締めるのだと説明を始めたが、誰もそちらを見ていなかった。
ボンは保冷バッグへ前脚をかけ、期待に満ちた目で亮を見上げていた。野田が謝りながら引き離そうとするほど、ボンはぺたりと腹を地面へつけて重くなった。
「犬の嗅覚はすごいですね。しかし本当に保冷剤しか入ってませんから」
亮は笑顔を固めたままバッグを持ち上げ、その場を離れようとした。だが、持ち手がベンチの端に引っかかった。
バッグが逆さになり、半開きだった口から包装が飛び出した。透明なふた、油の染みた紙袋、値札シールが、審査台の前へ紙吹雪のように散らばった。
「駅前スーパー、特製唐揚げ」「昔ながらのコロッケ」「お出汁香るだし巻き卵」。大きく印刷された商品名を、参加者たちが声に出さずに読んでいた。
ボンは満足そうに唐揚げの包装の前へ座った。ただし食べようとはせず、仕事を終えた名探偵のような顔で亮を見上げている。
「これは、その、材料研究のために買ったんです」
亮は包装を拾い集めながら言った。自分でも驚くほど、営業用の声だけは滑らかだった。
「研究?」
「そう。市販品の味を確認して、自分の料理に生かそうと。偶然だなあ、商品名と今日のおかずが似ている」
千夏は「二度揚げ」「出汁の配合」と書かれた包装を見つめた。今朝、亮が得意げに話した言葉と同じだった。
包装が散らばった直後、千夏は何も言わずに本部テントの裏へ歩いていった。亮が追うと、千夏は公園入口へ向かいながら、ようやく口を開いた。
「買った物でも、一緒に詰めればよかったのに」
「いや、これは本当に研究用で」
「まだ言うの?」
千夏の声は大きくなかった。それだけに、亮は足を止めた。
「料理できないことなんて知ってるよ。前に作ってくれた焼きそば、麺が全部くっついてたし。私は、お父さんが作ったから食べたんだよ」
千夏は入口へ歩き出した。月に二回しか会えない日の背中が、いつもより早く遠ざかっていく。
「安西さん」
町内会長が亮を本部テントへ呼んだ。声を落とし、散らばった包装だけでは、出品された総菜と同じ品だと断定はできないと告げた。
「あなたが否定されるなら、審査対象には残せます。規則上は、現物を買った証拠までありませんので」
審査台では、亮の重箱がまだ有力候補のように中央へ置かれていた。あれを守れば、入賞できるかもしれない。だが公園入口では、千夏が一人で帰ろうとしていた。
頼れる父親だと見せたかった。料理もできて、弁当大会で賞を取り、会えない時間まで埋められるような立派な父親に見せたかった。しかし今守ろうとしているものは、千夏との時間ではなく、亮自身の見栄だった。
「会長、審査の前にマイクを貸してください」
亮はそう頼み、入口へ向かって声を張った。「千夏、帰る前に聞いてくれ」と呼ぶと、千夏の足が止まった。
同日昼前、亮は町内公園の特設壇上へ上がった。町内会長からマイクを受け取ると、審査を待つ参加者たちと、少し離れた場所に立つ千夏を見た。
「私の弁当は、手作りではありません」
公園が静かになった。ボンだけが空になった保冷バッグを見張り、まだ何か出てくると信じて鼻を鳴らしていた。
「唐揚げもコロッケも煮物も卵焼きも、駅前スーパーで買いました。私は料理が苦手です。それを娘に知られたら、頼りない父親だと思われるのが怖くて、全部自分で作ったと嘘をつきました」
亮は千夏へ向き直った。言い訳に使えそうな言葉はいくつも浮かんだが、どれも口にしなかった。
「買ったことより、千夏にまで嘘をついたことが悪かった。ごめん」
町内会長は規則どおり、亮の完全手作り部門での失格を告げた。それから散らばった仕切りや飾り葉を眺め、口元を緩めた。
「では審査を待つ間、安西さんには別の責任を取っていただきましょう」
亮は重箱を壇上へ運び、買った総菜を見栄えよく詰める方法なら説明できると申し出た。題して「買った物を楽しく詰める教室」である。
「コロッケは斜めに切ると断面が見えます。茶色いおかずが多いときは、緑の飾り葉を入れると、それらしくなります。ただし料理の腕は一切上がりません」
参加者の間から笑いが起きた。町内会長が審査待ちの催しとして認めると、親子連れが重箱の周りへ集まってきた。
千夏もゆっくり壇上へ戻り、亮が並べた煮物の仕切りを動かした。卵焼きの黄色が隠れないよう、場所を入れ替える。
「こっちのほうが明るく見えるよ」
「先生、さすがです」
「お父さんは詰めすぎ。全部よく見せようとしてる」
それが弁当だけの話ではないとわかり、亮は素直にうなずいた。二人で隙間を作ると、重箱は前よりも楽しそうに見えた。
野田も笑いながら見物し、ボンは空の保冷バッグの前で待ち続けた。亮が「もう何もないよ」と底を見せても、ボンは疑い深く顔を突っ込み、参加者たちをさらに笑わせた。
優勝者が発表されるころには、亮の失格を気にする者はいなかった。即席教室には人だかりができ、亮と千夏は失敗を隠さず、買った総菜の向きを何度も直していた。
「次に会う日、卵焼きだけ一緒に作ろうか」
千夏が言うと、亮は少し考えるふりをした。今度は立派な返事を探すのではなく、本当の返事を選んだ。
「失敗する前提で、教えてください」
「私も上手じゃないよ」
「じゃあ、二人で失敗しよう」
月に二回の時間で、完成した何かを見せる必要はないのかもしれない。できないことを持ち寄って、一緒に困ればいい。
二人が空の重箱を片づけ始めても、ボンだけは保冷バッグから離れなかった。亮はその頑固な背中に頭を下げ、「名探偵には次から正直に申告します」と約束した。
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