四月上旬の朝、夏海は玄関でスマートフォンの共有カレンダーを開いた。青い帯で示された自分の二週間は今日で終わり、次の青い帯は十四日後から始まっている。間に挟まる圭介の予定も、費用の精算日も、乱れなく並んでいた。
「行こうか、ルル」
チワワのルルは首を傾げ、それから差し出されたハーネスに素直に鼻先を寄せた。駅までの住宅街ではいつもどおり夏海の半歩前を歩き、電柱や植え込みの根元を嗅いだ。
だが駅前の信号を渡り、電車の走る音が聞こえると、ルルは立ち止まった。夏海が移動用鞄を開くと自分から入ったものの、顔を上げず、底の毛布へ鼻を押しつけた。
改札前では圭介が待っていた。夏海が鞄からルルを出すと、細い脚が震え、ハーネスから抜けようとするように後ろへ下がった。
「まただな」
圭介が抱き上げると、ルルはその胸に爪を立てた。夏海は曲がったハーネスを直しながら、改札を行き交う人の足元を見た。
「音が嫌なんじゃない。ここ、朝はうるさいから」
「それだけかな」
「別れるのが寂しいのかも。どっちから離れるときも同じなら、公平でしょ」
圭介は答えず、ルルの背をゆっくり撫でた。夏海は共有カレンダーを見せ、次の受け渡しが十四日後の十九時であることを念押しした。
予定が確認できると、胸の中の小さな揺れも収まった。夏海はルルの頭に触れ、出発案内を見上げて改札を通った。
同月中旬、地方劇場の音響卓裏で、公演延長がスタッフに告げられた。夏海は機材の確認を終えると、ルルを迎える日を三日後ろへずらし、共有カレンダーを更新した。
翌日には追加公演が決まり、帰京日はさらに一日延びた。楽屋口の壁にもたれて再び日付を書き換えると、ほどなく圭介から返信が来た。
「やっと食欲が戻ったところだから、急がなくていい」
画面の文字は気遣いにも読めたが、夏海には、渡したくないという意味が薄く隠れているように思えた。ルルが自分のいない暮らしに慣れ、圭介だけを家族にしてしまうことが怖かった。
夏海は変更後の日付を太字にし、「この日で確定。十九時」と送った。圭介からは短く「了解」と返ってきた。
五月初旬の夕方、予定より遅れて帰京した夏海は、駅前広場で圭介からルルを受け取った。ルルは夏海の手を嗅ぎ、尾を忙しく振ったので、胸に残っていた疑いが少しほどけた。
ところが改札へ向けて歩き出すと、ルルの足は急に重くなった。爪を舗装に立てて動かず、鞄を開ければ底へ潜り込み、丸めた毛布の下へ頭を差し入れようとした。
「ここへ来るたび、前の日から食べなくなる」
圭介の声は責める調子ではなかった。それがかえって、夏海には自分だけが何も見ていないと言われたように聞こえた。
「圭介が心配しすぎるから、その不安が移ってるんじゃない」
圭介は反論しなかった。鞄の中で浅く息をするルルを見てから、夏海を見た。
「次までは、本当に二週間ある?」
「あるよ」
夏海は答えたが、その場でカレンダーを開くことはできなかった。
受け渡しから六日後の夜、次の公演準備が前倒しになった。夏海が床へキャリーケースを出すと、ルルは食べかけの皿を残し、食器台の陰へ体を押し込んだ。
「まだ行かないよ」
呼んでも目を合わせない。夏海がハーネスを手にした途端、ルルの耳が伏せられ、皿に触れてかすかな音を立てるほど体が震えた。
夏海はその場にしゃがみ、ハーネスを床へ置いた。圭介の不安が移ったのではない。キャリーケースを開く音も、荷物を詰める手も、次にどこへ連れていかれるか分からない気配も、すべて自分が与えていた。
二週間という区切りは、元夫婦にとっては公平だった。けれどルルにとっては、ようやく覚えた水の場所や眠る匂いを、理由も分からず取り上げられる間隔でしかなかった。
翌日の夕方、夏海はルルを鞄に入れて駅へ向かった。しかし小さな公園まで来たところで、ルルは鞄の中から出ようともせず、抱き上げても脚を縮めたままだった。
夏海は圭介に電話し、駅ではなく公園へ来てほしいと頼んだ。圭介は十分ほどで現れ、ベンチの前に立った。
「もう、行ったり来たりはやめたほうがいいと思う」
圭介は、以前二人で暮らした部屋をルルの唯一の生活拠点にしたいと言った。少なくとも半年は受け渡しだけでなく、夏海との面会もやめたい、と続けた。
「半年も? 登録名義は私だよ。病院代も餌代も半分払ってる」
「分かってる。でも、それは俺たちの話だ」
「私にも一緒に暮らす権利がある」
声が少し高くなるたび、圭介に抱かれたルルの体が震えた。二人の声の間で、逃げる場所を探すように顔を伏せている。
夏海は続きの言葉を飲み込んだ。圭介も黙り、ルルの胸元に手を添えた。
「今夜だけ、そっちで様子を見る。落ち着けるか、私も確認したい」
圭介はうなずいた。結論は、それからにすることになった。
同日の夜、夏海は圭介のマンションまで同行した。離婚前に二人で暮らしていた部屋には、圭介の仕事机とルルの寝床だけが以前と同じ場所にあった。
移動用鞄を床へ置いても、ルルはすぐには出てこなかった。圭介が仕事机に座り、夏海も呼びかけずに待つと、しばらくして小さな鼻先が現れた。
ルルは部屋の匂いを確かめるように歩き、水を飲んだ。それから壁際の寝床を前脚で二度掻き、体を丸めた。呼吸がゆっくりになり、伏せていた耳も戻っていった。
夏海は向かいの壁を見た。家族の暮らしはもうないのに、ルルの日常だけが、食器と寝床と決まった時刻の中に残っていた。
「起こさないうちに帰る」
玄関でそう言うと、圭介は何も引き留めなかった。夏海も、次に会う日を決めなかった。
翌朝、圭介から写真が届いた。朝の光の中で、ルルが食器に顔を寄せている。短い文には「全部食べた」とだけあった。
夏海は共有カレンダーを開いた。二週間ごとの青い帯を眺めているうちに、自分が守ろうとしていたものが見えた。ルルとの暮らしだけではなく、圭介と連絡を取り、同じ予定を確認し、失った家族がまだ別の形で続いていると思える時間だった。
その時間を必要としていたのは、ルルではなく自分だった。夏海は登録名義を圭介へ移すための書類を取り寄せた。
一週間後の午後、次の公演へ発つ日に、夏海は書類を持って以前の町を訪れた。署名した用紙を圭介へ渡し、最後にルルのリードを持たせてもらった。
三人は駅へ直行せず、川沿いの道へ向かった。かつて休日に歩いた道を一周するあいだ、ルルは震えず、草の匂いを嗅ぎ、ときどき先へ進んでは二人を待った。
川面の光が建物の影に入るころ、三人は駅前へ戻った。雑踏が近づいても、今日はルルを鞄へ入れなかった。
夏海はしゃがみ、ルルの頭を一度だけ撫でた。言葉にすれば呼びかけになりそうで、何も言わずに立ち上がった。
「じゃあ」
圭介にリードを渡すと、ルルは数歩ついていったあと、振り返った。夏海は名前を呼ばなかった。手も伸ばさなかった。
圭介が歩き出すと、ルルもやがて前を向いた。二人の背中が川沿いへ戻っていくのを見届けてから、夏海はひとりで改札を通った。
ホームで共有カレンダーを開き、二週間ごとの受け渡し予定をすべて削除した。白くなった日付には何も入れなかった。
空白は、もう誰かに会える約束ではなかった。それでも夏海は埋め直さず、到着した電車に乗った。扉が閉まり、次の公演へ向かう車内で、空いた手を膝の上に置いた。
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