朗読動画でもお楽しみいただけます
この物語はYouTubeの朗読動画でもご覧いただけます。
月曜の午前、閉店した相原洋裁店には、布と古い木材の匂いだけが残っていた。理香は帳場の引き出しを空にしながら、売却代金から母の住居費と店の債務を引き、残りを姉妹で折半する計算書を作業台に置いた。
「私の取り分で事務所を借りる。申込期限が金曜の正午だから、今日の査定で話を進めたいの」
直子は畳んでいた布から手を離した。
「折半って、何を半分にするの。お母さんの通院も店番も、私がここでやってきた縫い物も入ってないじゃない」
「私だって毎月送金してきた。記録のない労力まで持ち出したら、清算なんてできないでしょう」
言った途端、作業台の脇にいた麦が顔を上げた。母の新居が整うまで直子が預かっているミニチュアダックスは、姉妹の刺々しい声を嫌うように低い腹を床へつけた。
「離れたところからお金を振り込めば、それで半分働いたことになるのね」
直子の声に、理香は計算書を裏返した。午後の査定までに片づけるべき物は多く、言い争う時間こそ数字にできない無駄だと思った。
午後、黒田が収納や壁の状態を確かめ始めた。作業台をずらした大きな音に驚き、麦は椅子の間を抜けて台の下へ潜り込んだ。
直子が呼んでも出てこない。やがて麦は、奥から古い前掛けの紐をくわえ、後ずさるようにして引きずり出した。
前掛けのポケットが床に当たり、折り畳まれた紙が何枚もこぼれた。理香が拾い上げると、そこには客の名、預かり品、仕上がり予定日が母の字で記されていた。
「制服の裾上げ、上着の袖詰め……七件ある」
直子は預かり証と、棚に残った包みを照らし合わせた。どれも処理済みの印がなかった。
黒田は書類を確認し、静かに鞄を閉じた。
「預かり品や営業上の債務が残っている状態では、引き渡しに進めません。好条件での売却を希望されるなら、荷物も案件も整理したうえで、金曜までにご意思をいただきたいのですが」
「返金して品物を返せば整理できますよね」
理香が尋ねる横で、直子は伝票を束ねた。
「全部仕上げる。それまで店は渡さない」
金曜という言葉が、理香には事務所の申込期限と同じ大きさで聞こえた。店の信用より先に、借りたかった部屋の窓と机の配置が頭へ浮かんだ。
月曜の夕方、姉妹は電話台から母の澄江へ連絡した。澄江はしばらく黙ったあと、転居準備の最中に伝票を前掛けへ入れ、そのまま失念したのだと認めた。
「閉める前に終えたつもりだった。私の不始末だね」
「返金して、預かった物を返す。それでいいでしょう」
理香は七件へ順に電話をかけた。しかし卒業式用の制服を預けた高橋の母親は、返金では困ると言った。
「息子の式が週末なんです。買い直す余裕もありません。相原さんなら間に合わせてくれるって、それでお願いしたんです」
電話の向こうで、息子が何かを尋ねる声がした。理香は用意していた謝罪を口にできず、返事を保留して受話器を置いた。
直子はミシンの覆いを外し、制服の包みを作業台に広げた。
「母さんの名前で受けた約束よ。返せば消えるものじゃない」
「七件を一人でやる気?」
「やれるところまでやる」
直子は裾の縫い目を確認し、ほどき始めた。夜が深くなっても帰る様子がないため、理香は売却を遅らせないためだと自分に言い聞かせ、伝票を期限順に並べた。
客への連絡、受け渡し時刻の調整、預かり金の確認を一覧にし、理香も制服の裾へ糸切りばさみを入れた。幼い頃に母から仕込まれた指の動きは、思ったより鈍っていなかった。
火曜から水曜にかけて、店には再びアイロンの蒸気とミシンの音が戻った。理香が予約表を作り、採寸とほどき、裁断と縫製、受け渡しを姉妹で分けると、七件はようやく作業の形になった。
高橋家へ出張採寸に行った水曜、直子は玄関先で息子の制服を合わせ、立ち方の癖を見ながら左右の長さを変えて印をつけた。高橋の母親は、その手元を見つめながら言った。
「直子さんには前から無理を聞いてもらっていて。お母さまが通院の日も店を開けてくれたし、うちの事情も覚えていてくれたから」
帰り道、理香は予約表の余白を見た。そこに記されているのは採寸の三十分だけだが、直子は客の都合を聞き、移動し、母に代わって店を開け、仕上がりまで気にかけてきた。その時間は、これまでどの帳簿にも載っていなかった。
店へ戻ると、直子は母の通院記録を注文帳の横に置いた。午前に病院へ付き添った日には夜に縫い、診察が延びた日には客へ頭を下げて受け渡しをずらしていたことが、二冊の日付から見えてきた。
「これ、ずっと一人で調整してたの」
「母さんが動けないなら、誰かがやるしかなかったから」
直子はそれだけ言ってミシンを踏んだ。理香は予約表に新しく「作業時間」の欄を作り、直子が店を開けた時間、採寸、縫製、連絡にかかった時間を書き込んだ。
数字にした途端に理解したのではない。書く場所さえなかったことに、ようやく気づいたのだった。
木曜の夜、材料費を確かめるため、直子が古い帳簿を開いた。売上の少ない月ごとに同額の入金があり、その名義を見た直子の指が止まった。
「これ、理香だったの」
理香は自分の送金記録を出し、帳簿の日付と突き合わせた。入金は家賃や光熱費、母の医療費が足りない月の穴を埋めていた。
「独立資金から出してた。母さんには、直子には言わなくていいって頼まれたの。私も、お金を出してる自分だけが負担してると思ってたから」
「私は店の売上だと思ってた。離れてるあんたは、何もしてないって」
二人の間で、麦が囲いの中から鼻を鳴らした。針や道具へ近づかせないよう設けた場所で、丸くなったままこちらを見ていた。
理香は新しい表を開いた。自分の送金と立替金、直子の介助時間と店番、採寸や縫製の時間を、同じ頁に並べていった。
「介助を全部お金に直すのは無理ね」
「でも、書かずに消すのは違う」
金額に換算できない項目は空欄にせず、「要協議」と残した。公平とは、同じ額に切り分けることではなく、互いに見える場所へ負担を出し、条件を決め直すことなのかもしれなかった。
金曜の午前、残った包みを数えると、今日中にすべて仕上げるのは難しかった。理香は事務所の申込書を見つめたあと、取り下げの連絡を入れた。
続けて黒田へ電話し、売却手続きを一週間延期したいと伝えた。黒田は、同じ条件では売れなくなる可能性があると念を押した。
「分かっています。でも、未処理の約束を隠したまま引き渡すことはできません」
受話器を置くと、胸の奥に空いた場所へ、惜しさが遅れて押し寄せた。あの事務所はもう借りられない。それでも、その損を姉に責任として渡す気にはなれなかった。
直子は作業の手を止めた。
「理香だけに損をさせたままにはしない。店を売ったあと、出張で続けるなら、今度は最初から条件を作ろう」
二人は利益配分、立替金の精算、作業単価、休む場合の連絡と責任を文書にした。直子が縫製と採寸を担い、理香が予約管理と会計を受け持つ。曖昧な手伝いという言葉は使わなかった。
日曜の午後、最後の制服が作業台に載った。直子が裾を縫い、理香が仕上げのアイロンを当てると、折り目がまっすぐ立ち上がった。
高橋親子が受け取りに来ると、息子はその場で制服を身につけた。裾は靴の上でちょうどよく止まり、母親は何度も頭を下げた。
「間に合わせてくださって、本当にありがとうございました」
理香は受領欄へ印をもらい、預かり金と残金を記録した。その横には、直子の採寸、ほどき、縫製にかかった時間と報酬予定額が記されていた。
夕方までに七件すべてを渡し終え、姉妹は澄江へ電話した。澄江は完了の報告を聞いて詫び、売却後に始める出張洋裁の契約案にも同意した。
「姉妹だからって、甘えて曖昧にしちゃいけなかったね」
電話を切ったあと、二人は麦の囲いの位置を確かめた。今後も客前へ看板犬として出さず、針やミシンから離れた安全な場所で休ませる。それも運用の決まりとして書き加えた。
空になった店で、理香は新しい予約表を開いた。最初の欄には依頼人の名ではなく、「縫製・直子」「管理会計・理香」と書き、その隣に担当範囲と取り分を記した。
直子が表をのぞき込み、少しだけ笑った。
理香は折半と印刷した古い計算書を裏返した。店には一週間分の糸くずと、仕上げた約束の余韻が残っている。二人で作る公平さは、最初から同じ長さに切るものではなく、何度でも測り直し、互いに合うところで縫い留めるものだった。
物語を、アプリで。
「犬と人の物語」はiPhone・Androidで読めます。アプリでできることや読書画面をご覧いただいてから、お使いのストアへ進めます。

