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午後一時、海辺の町の保護施設前には、潮を含んだ風が吹きつけていた。宮下奈緒は車の後部に固定したクレートへ、柴犬のコタを乗せた。推定四歳の雄で、赤茶の毛並みは整っていたが、伏せた耳と落ち着かない呼吸が、移動への不安を示していた。
奈緒は申し送り書を確認した。車酔いしやすいため、一時間ごとに休憩と給水を取ること。午後六時発の最終フェリーまでは五時間しかなく、予定表には渋滞や休憩の余白がほとんどなかった。
「今日中に藤野さんへ引き渡せれば、選考実績になります」
仲介会社の坂口は、車のそばで念を押した。
「この一件が問題なく終われば、来月からの大型案件を宮下さんに任せる方向で進められます。ただし、最終便には必ず間に合わせてください」
個人で仕事を始めて二年、奈緒の収入は安定していなかった。この契約を取れれば、毎月の支払いに追われずに済む。奈緒は申し送り書を鞄へしまい、遅れだけは出せないと思いながら運転席へ乗った。
午後二時を過ぎるころ、海沿いの国道は曲がりくねり、車体が左右へ揺れ始めた。クレートの中でコタが舌を出し、何度も唾を飲み込んだ。奈緒は路肩へ車を寄せ、水を少し飲ませたが、五分もたたないうちに扉を閉めた。
「ごめん。港でちゃんと休もう」
搬送記録には、午後二時から二時二十分まで休憩、給水、異常なし、と書き足した。空白のままでは、規定を守らなかったことが分かってしまう。文字にしてしまえば、それが事実だったように見えた。
再び走り出して間もなく、前方に車列ができていた。斜面から崩れた土砂と折れた木が国道をふさぎ、全面通行止めの表示が立っている。復旧は早くても夜になると知らされ、奈緒は地図を開いた。
海岸に沿う旧道なら、徒歩で港まで抜けられる。奈緒は車を退避場所へ置き、荷物を背負った。コタのハーネスを急いで締め、リードを握ると、午後二時四十分、二人は旧海岸道へ入った。
午後三時半、道は岩壁をくり抜いた狭いトンネルへ続いていた。奈緒は腕時計を見て、コタを速足で引いた。湿った暗がりに、二人分の足音が響いた。
背後から大型作業車が近づき、エンジン音が壁の間で膨れ上がった。コタは身を跳ねさせ、後ずさった。奈緒がリードを引いた瞬間、緩んでいたハーネスから前脚が抜け、コタの体がするりと離れた。
「コタ!」
コタは暗い待避所へ駆け込んだ。奈緒が近づくほど奥へ逃げ、作業車の音が通り過ぎた後も、荒い息だけが闇の中から聞こえた。奈緒は追うのをやめ、その場にしゃがんだ。
「もう引っぱらない。大丈夫だから」
何度も名を呼び、差し出した手を動かさずに待った。二十分ほどして、コタは腹を低くしたまま近づいてきた。奈緒は首輪をつかむのではなく、胸ごと静かに抱き留めた。
時計を見れば、残された余裕はほとんどなかった。奈緒は予備のリードを首輪につなぎ、ハーネスと二重にした。コタは奈緒から顔をそむけたまま、重い足取りで歩き出した。
午後四時半、最短路にある吊り橋へ着いた。床板は潮と風にさらされて黒ずみ、途中の一枚が外れていた。強い風が吹くたび、細い橋全体がきしみながら揺れた。
奈緒はコタを抱き上げようとした。だがコタは身を低くし、四本の脚を地面へ突っ張った。腕を差し入れても体を固くし、喉の奥で小さくうなった。
「これを渡らないと、間に合わないの」
そう言って橋へ目を向けたとき、奈緒自身の足も止まった。板の隙間の下で暗い海が砕け、白い波が岩へ打ちつけていた。犬が怖がっているのではない。危険だから拒んでいるのだと、ようやく認めた。
奈緒はコタを地面へ戻し、岬下の漁村を回る道へ下りた。最終便に間に合う可能性は、その選択でほぼ消えた。それでも吊り橋を背にすると、コタは少しずつ奈緒の後をついてきた。
漁村へ着いたころには、午後五時を回っていた。奈緒は風を避けられる場所で足を止め、今度は時計を見ずにコタへ水を与えた。歩き続けた足裏には擦り傷があり、奈緒は携帯していた用品で手当てした。
コタの呼吸が落ち着くまで待ってから、二人は港への坂道を進んだ。空は夕暮れの色を失い、海から吹く風はさらに冷たくなっていた。
午後六時十五分、奈緒がフェリー港の乗り場へ駆け込んだとき、海上には最終便の船影が小さく残っているだけだった。十五分前に出航したと告げられ、奈緒は濡れた髪を押さえながら坂口へ電話をかけた。
「最終便を逃しました。明朝の便に変更させてください」
「待ってください。今夜中に着けば、処理はできます」
坂口の声は低く、早かった。
「浜田さんという船主を港へ向かわせています。私船で渡って、報告上は定期便に乗ったことにしてください。ここで遅延がつけば、大型契約の話は進められません」
間もなく、漁師の浜田が乗り場へ来た。係留された小型船は、波に持ち上げられるたび船体を岸壁へ寄せていた。
「出せないことはない。ただ、沖はここより荒れている」
浜田はコタを見てから奈緒へ言った。
「人だけならともかく、犬を安全に運べる保証はしない。それでも行くなら乗せる」
奈緒はリードを握り、乗船口へ一歩進んだ。今夜中に着けば、記録の空白も遅延も隠せる。大型契約を失わずに済むかもしれない。
その足元へ、コタが体を寄せた。濡れた毛を震わせながら、奈緒の靴から離れようとしない。その姿を見た瞬間、路肩で休憩時間を書き足した自分と、荒れた海へ進もうとしている自分が重なった。
どちらもコタのためではなかった。失敗した自分を見られたくない。ただそれだけのために、預かった命へ無理を重ねていた。
奈緒は足を止めた。
「浜田さん、乗りません。手配していただいたのに、すみません」
浜田は船の揺れを見て、短くうなずいた。
午後六時半、奈緒は港の待合所へ入り、坂口へかけ直した。コタを毛布の上へ伏せさせてから、電話を耳へ当てた。
「私船は使いません。それと、報告しなければならないことがあります」
奈緒は、規定の休憩を取らず、記録だけを書き足したことを話した。ハーネスの確認を怠ってコタを逃がしたこと、危険な吊り橋を避けて遠回りし、最終便を逃したことも、一つずつ伝えた。
「それを今、言うんですか」
坂口の声から感情が消えた。
「はい。料金は全額返します。大型契約を任せられないという判断も受け入れます」
しばらく沈黙した後、坂口は選考の取り消しを告げた。奈緒は言い訳をせず、了承した。電話を切ると、胸の内側に空洞ができたようだったが、もう隠すものはなかった。
続いて、離島で待つ藤野へ直接電話をかけた。
「今日中にお届けする約束を守れませんでした。私の判断にも、記録にも誤りがありました」
奈緒は同じ経緯を説明し、全額返金と、翌朝の安全な定期便で自ら届けることを申し出た。
「コタは、今は安全な場所にいるんですね」
「はい。足に軽い擦り傷がありますが、手当てをして、水も飲みました。今夜は私がそばにいます」
「分かりました。今夜は渡らないでください。明日の朝、港で待っています」
通話を終えると、奈緒は記録用紙を開いた。書き足した休憩時刻を二本線で消し、実際の時間と体調、その後の経過を書き直した。それから毛布をもう一枚コタへかけ、水の入った器をそばへ置いた。
コタはしばらく震えていたが、やがて奈緒の足へ背を預けた。奈緒は硬い椅子に座り、夜のあいだ何度も呼吸と水分摂取を確かめた。失った契約のことを考えるたび胸は重くなったが、私船のエンジン音が遠ざかった後、その重さから目をそらさなかった。
翌朝七時、風は弱まり、始発フェリーの運航が決まった。奈緒はコタと乗船し、揺れの少ない場所でクレートを固定した。記録用紙に書いたのは到着予定時刻ではなく、コタの呼吸数と、水を飲んだ量だった。
船が離島の港へ近づくころ、コタは伏せたまま顔を上げた。奈緒は扉越しにその様子を確かめ、急かさずに待った。
午前八時、港では藤野が待っていた。奈緒はコタを直接引き渡し、前日の休憩不足から今朝の船内での状態まで、改めて説明した。
藤野が差し出した器から、コタはゆっくり水を飲んだ。飲み終えると新しい里親の手の匂いを嗅ぎ、その足元へ立った。
奈緒は返金済みの受領書と、訂正した搬送記録を藤野へ渡した。予定より十四時間遅れた到着だった。けれどその紙には、取り繕った時刻も、隠した失敗も残っていなかった。
約束を守るとは、決められた時刻へ無理に間に合わせることではない。預かった命の安全と、起きた事実に最後まで責任を持つことなのだと、奈緒はようやく知った。コタが藤野のそばで落ち着くのを見届けてから、奈緒は朝の港を一人で歩き出した。
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