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月末の引き渡しまで、あと五営業日。
会議室のモニターには、老朽アパートの退去一覧が映っていた。沢渡美緒は最下段の一行を指した。
「未退去は一階の榊仕立店だけです。ほかの七世帯は、部屋を明け渡すという確認書まで回収しました」
このアパートは、入居者が全員出た状態で月末に売られることになっていた。売り主は代金を受け取り、買い手は予定どおり建て替えに入れる。退去の手続きを任された美緒の会社も、期限内に仕事を終えれば報酬を得る。最後の一室が残れば、その予定がすべて止まるのだった。
直属上司の藤堂雅彦は腕を組んだ。
「榊さんも月末までに出す。買主の見学日も、代金の支払いと建物の引き渡しをする日も動かさない。それができれば、次の昇進候補に君を推す」
初めて任された大型の仕事だった。売却額、退去率、残り日数。美緒は数字を並べることで仕事を制御してきた。
「榊さんは床下から音がすると言っていますが、建物は築四十年です。補償金を増やすために、話を長引かせたいだけかと」
「なら、条件が十分だと理解させろ」
美緒はうなずいた。安全を確かめるより先に、今日中に署名を取る。その順番に疑いはなかった。
同日の午後、榊仕立店の作業台には、裁ちかけの布が広げられていた。
美緒はその端を避け、補償額と期限をまとめた表を置いた。
「転居補償は社内の決まりで出せる上限です。荷物を運ぶ業者も二十七日に確保できます。こちらへご署名いただければ、予定どおり進められます」
榊重治は紙を見ず、壁際へ目を向けた。
「金の話じゃない。夜になると、あの下で音がするんだ。湿ったものを擦るような音と、引っかく音がな」
足元にいたジャック・ラッセル・テリアのボタンが、低い姿勢で壁際へ走った。鼻を床板へ押しつけ、短い前脚で激しく掻く。爪音が狭い店内に響いた。
「古い建物ですから、ネズミくらいはいるでしょう」
「なら、確かめてくれ。安全か分からんものを、安全でしたという紙にはできない」
「これは、決められた条件で部屋を明け渡すと確認する書類です」
「わしの名前で、何もなかったことにはしたくない」
美緒は表の補償額に視線を落とした。十分という数字が、榊には通じなかった。
翌朝、買主企業の担当者を案内している最中にも、ボタンは客の足をすり抜けた。
昨日と同じ床板に鼻を当て、吠えもせずに掻き始める。床板が爪の下でわずかに沈み、奥から乾いた物音が返った。
「ボタン、よせ」
榊が抱き上げようとしたが、犬は身をよじった。美緒はリードを受け取り、隣室へ連れていった。扉を閉めても爪音はしばらく続いた。
「床に問題があるんですか」
買主企業の担当者が尋ねた。
「床の表面が古くなっているだけだと思われます。必要なら、建物をお渡しする前に直します」
「代金を支払う前に、問題がないことを書面で確認していただけますか」
「はい。こちらで用意します」
答えてから、美緒は沈んだ床板を見た。書面の署名欄には、担当者である自分の名が入る。榊の訴えを口実として退けることと、自分の名で安全を保証することは、同じではなかった。
引き渡しまで三営業日となった朝、ボタンはまた同じ場所を掻いた。
美緒は榊の承諾を得て、協力会社の建物点検員を呼んだ。榊が転居候補先を見に出たあと、点検員は壁際の床板を一枚外した。
湿気を含んだ空気が上がった。ライトの先にネズミの通り道があり、その奥の土台は黒く濡れていた。建物を支える太い木材は腐り、工具の先が抵抗なく食い込んだ。
「ネズミが動いていた音でしょう。ただ、問題はその奥です」
点検員は床下へ光を向けた。
「水漏れが長く続いた跡があります。建物を支える部分まで腐っています。表面の床板を替えるだけでは、安全だとは言えません。もっと詳しく調べる必要があります」
「最近の水漏れですか」
「この腐り方なら、もっと前からです」
戻ってきた榊に、美緒は床下で見つかったことをそのまま説明した。
「今夜から、会社で宿泊先を手配します。安全が確認できるまで、ここでは寝ないでください」
榊はしばらく黙ったあと、ボタンの頭を撫でた。
「やっと、音を聞いてくれたな」
責める口調ではなかった。それが美緒には重かった。
同日の夕方、点検員から写真付きの報告書が届いた。美緒は書類の保管庫へ入り、過去の修理記録を番号順に調べた。
数年前の水漏れについて書かれた報告書が見つかった。保管されていた元の書類には、建物を支える木材の近くまで水が入り、床を開けて調べる必要があると記されていた。
ところが、今回の売却のために用意された同じ番号の記録には、別の文言が入力されていた。
「配管交換・乾燥・修繕完了」
美緒は工事代金の請求書を探した。工事後の写真も、作業が終わったことを確認する書類もなかった。あるのは、直していないものを修理済みに変えた記録だけだった。
保管庫の机で元の書類を複写し、執務席へ戻って、書き換えられた記録も保存した。点検員の報告書と写真を添え、保存した時刻を記録する。数字に置き換えれば扱えると思っていた事情が、今度は消してはならない証拠になった。
翌朝、美緒は藤堂の個室に資料を並べた。
「床下で、建物を支える木材が長い間の水漏れによって腐っているのが見つかりました。過去の報告書も、元の書類と売却用の記録で内容が違います。引き渡しを止めて、詳しく調べるべきです」
藤堂は元の書類の複写を一瞥した。
「昔の担当者の判断だ。今さら蒸し返せば、会社も買主も、君も損をする」
「工事をした記録がありません」
「買主には、ネズミが床板を傷めたので交換するとだけ伝えろ。点検員の報告は、まだ詳しく調べる前の資料だ。問題がないという書面には、予定どおり署名する」
「安全を保証できません」
「この仕事を終えれば、昇進と手当は確定させる。ここで止めれば、その話はなくなる。何年も前のことまで君が背負う必要はない」
面談後、藤堂から社内メッセージが届いた。
『腐食と古い記録には触れず、引き渡しを優先。確認書は沢渡美緒名義で処理すること』
美緒は印刷前の確認書を開いた。末尾の署名欄は空白だった。
そこへ名を書けば、会社が負うべき修理費用と危険は、事情を知らない榊と買主へ移る。売り主と会社は予定どおり金を受け取り、美緒は昇進する。その代わり、買ったあとに欠陥が明らかになれば、買主が修理費を負い、事故が起きれば、そこにいる人が傷つく。
予定を守るとは、そういう意味になる。
美緒は手帳を開き、ページを二つに分けた。
引き渡しを止めた場合。売却の延期、会社の損失、案件手当の消滅、昇進の見送り、自分への処分。
引き渡しを進めた場合。買主が負う修理費、入居者や作業員の危険、事故が起きた場合の被害。
事故が起きるとは限らない。建て替えまで何も起きないかもしれない。藤堂の言うとおり、過去の判断を自分が背負う必要はないのかもしれなかった。
美緒は一度、確認書を印刷した。紙の上では、床下の腐食も、書き換えられた記録も見えなかった。必要な欄を埋めて署名すれば、仕事は予定どおり完了する。
ペンを持つと、榊の声がよみがえった。
わしの名前で、何もなかったことにはしたくない。
榊に要求していたことを、今度は藤堂が自分に要求している。安全だと分からないものを、自分の名前で安全だったことにする。その違いに気づいてしまえば、もう単なる社内手続きとは思えなかった。
それでも、美緒は告発用のメールを作れなかった。宛先に買主の名を入れては消し、不正を調べる部署の連絡先を開いては閉じた。送れば、自分から戻れない場所へ進む。送らなければ、危険だけが自分の見えない場所へ移る。
終業時刻を過ぎても、二つに分けた手帳のページを見つめた。左側の損には、すべて自分や会社の名前がついていた。右側の損には、まだ誰の名前もついていなかった。
名前がないから、負わせてよいわけではなかった。
美緒は証拠のファイルを一つのフォルダーにまとめた。しかし、送信先は決められないまま、パソコンを閉じた。
月末、引き渡し予定日の朝。
会議室では、代金の支払いと建物の受け渡しに必要な書類が机上にそろい、買主企業の担当者が時刻を確認していた。榊は確認のために呼ばれ、硬い表情で席についていた。
藤堂は美緒へ確認書を差し出した。
「署名して、始めよう」
美緒はペンを受け取った。紙の末尾にある空白が、昨日より小さく見えた。名を書くだけなら数秒だった。その数秒を終えれば、昇進も手当も失わずに済む。藤堂の命令に従っただけだと言うこともできる。
ペン先が紙に触れた。
床板へ工具が抵抗なく食い込む感触が浮かんだ。ボタンの爪音と、榊の「やっと、音を聞いてくれたな」という声が重なった。
美緒はペンを置いた。
「私は、この確認書を認めません」
藤堂の眉が動いた。
「何を言っている。座れ」
「安全ではないものを、安全だとする引き渡しも認めません」
言い切った途端、美緒は怖くなった。藤堂の返事を聞く前に、資料を保存したパソコンを抱え、会議室を飛び出した。
廊下へ出ても足を止められず、突き当たりの共用席まで走った。椅子へ座るより先にパソコンを開く。指が震え、パスワードを一度間違えた。
会議室へ戻れば、まだ取り消せるかもしれない。体調が悪くなったとでも言い、別の担当者に署名させれば、自分だけは直接責任を負わずに済む。その考えが浮かび、美緒は息を止めた。
それでは、署名欄から自分の名が消えるだけだった。危険が榊と買主へ移ることは変わらない。
美緒は新しいメールを開いた。
点検員の検査結果、水漏れ報告の元の書類、書き換えられた記録、藤堂の指示。保存していた証拠を一つずつ添付した。宛先に買主企業の担当者、榊、社内で不正を調べる部署を入れる。
本文には、確認できた事実と、安全を保証できないため引き渡しの中止を求めることだけを書いた。自分を守る言い訳は書かなかった。
送信ボタンに指を置いたまま、数秒動けなかった。
昇進候補という言葉が浮かび、消えた。
美緒はボタンを押した。
画面に送信完了の表示が出る。もう戻せなかった。
美緒はパソコンを抱え、会議室へ戻った。扉を開けたとき、買主企業の担当者の端末に着信音が鳴った。添付資料を開いた彼の表情が変わった。
「この状態では代金を支払えません。本日の引き渡しは中止します」
「沢渡、君は担当から外す」
藤堂が立ち上がった。
そのとき、会議室の電話が鳴った。社内で不正を調べる部署からだった。証拠が失われないよう、藤堂をこの仕事の指揮から外し、社外の専門家も加えて調査を始めるという連絡だった。
美緒は同席していた榊へ頭を下げた。
「床下の音を、補償金を増やすための話だと決めつけました。数字の問題にして、聞かなかった。申し訳ありませんでした」
榊はすぐには答えなかった。やがて確認書を美緒の前へ戻した。
「安全になったと分かった日に、これは書く」
数週間後、美緒は榊の新しい仕立店を訪ねた。
調査では、過去の水漏れ報告が書き換えられていたことと、藤堂が欠陥を隠すよう指示したことが認められた。藤堂は処分を受け、管理職を解かれた。美緒が関係者へ一斉に知らせた行為は、会社の不正を正しく報告したものと認められ、担当から外すという命令も撤回された。
売却は白紙となり、会社の費用で全入居者の安全な転居と、建物全体の詳しい調査が始まった。美緒に不利な人事をしないという通知も届いたが、約束されていた昇進は受けなかった。あれは仕事への評価ではなく、沈黙との取引だったのだと分かっていた。
美緒は、建物の安全管理を見直す新しい担当に加わった。
新しい店の床は堅かった。ボタンは壁際を一度だけ嗅ぐと、爪を立てずに榊の足元へ戻った。
榊は移転が終わったことを確かめ、退去確認書へ署名した。美緒も、転居費用と追加の調査費用を会社が負担すると明記された確認欄に自分の名を書いた。
予定を守るためではない。損を見えない誰かへ押しつけるためでもない。
誰が責任を負うべきかを、正しい場所へ戻すための署名だった。
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