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初夏の平日午後、家庭裁判所の調停室で、藤崎崇は机の上に資料を並べた。面会の日付、滞在時間、美咲が口にした言葉まで表にしてある。大手企業の研究職として会議に臨むときと同じように、判断に必要な事実を過不足なく示したつもりだった。
「現在の月二回を、まず毎週に増やしたいと考えています。いずれは宿泊も認めていただきたいです」
向かいに座る由紀は資料を見ず、膝の上で手を組んでいた。
「美咲は、面会の前後に黙り込むことがあります。会いたくないとは言いません。でも、平気だとも思えません」
「本人は毎回、大丈夫だと言っています」
崇は即座に返した。十三歳なら自分の気持ちは言えるし、その言葉を尊重するべきだ。由紀の不安が美咲に伝わり、必要のない警戒を植えつけているのではないかと、崇は順序立てて説明した。
調停委員はしばらく二人を見てから、手元の書類を閉じた。
「大丈夫という言葉だけで、急いで結論を出さないほうがよいでしょう。当面は今の面会を続け、美咲さんが安心して意思を示せる条件を見ていきませんか」
調停は継続になった。部屋を出た崇には、判断を先送りされたとしか思えなかった。次の面会では、美咲と自分の関係に問題がないことを示せばいい。
同じ週の土曜午後、崇は由紀の家のリビングで、美咲の数学の宿題を見ていた。離婚前から飼っているラブラドール・レトリーバーのアスカは、二人の足元に伏せていた。
「ここまで式を立てられたなら、次はわかるだろう。何を移項する?」
美咲はノートを見たまま、鉛筆を動かさなかった。
「さっき説明したよな。右辺にあるものをどうする? 難しいことは聞いてない。答えてみて」
崇はわかりやすくするために、同じ説明を別の言葉で重ねた。返事がないので、聞こえているか確かめるように声を強めた。美咲の指先が鉛筆を握ったまま止まると、アスカが立ち上がった。
大きな体が机の脇を回り、崇と美咲の間に入った。アスカは美咲に背を向け、黙って崇を見つめた。
「少し休憩にしたら」
離れたところにいた由紀が言った。
「怒ってない。途中でやめるより、わかるところまで進めたほうが効率がいい」
崇が答えると、美咲はアスカの背に両手を置いた。幼い頃から一緒にいる姉にすがるような手つきだった。
「私、大丈夫だから」
その言葉に崇はうなずいた。アスカが割って入ったのは、由紀が過敏に反応するのを覚えたからだろう。犬の行動より、本人の返事のほうが確かな証拠だと考えた。
二週間後の日曜夕方、面会の終わりが近づくと、崇はリビングで美咲に次回の調停について話した。曖昧な状態を終わらせるには、本人の希望をはっきり伝える必要があった。
「毎週会って、たまには泊まりたいって、調停で話してもいいか」
美咲はアスカの首元を撫でながら、「どっちでもいい」と答えた。
「どっちでもいいじゃ、希望が伝わらない。お父さんともっと会いたいか、今のままがいいか、どっちなんだ」
美咲は口を閉じた。崇は質問が難しかったのかと思い、面会が増えれば宿題も見られること、出かける時間も作れることを説明した。選択肢の利点を整理すれば答えられるはずだった。
「返事を急がせないで」
由紀が割って入った。
「そうやって、また僕だけを悪者にするのか。本人の希望を聞いているだけだ」
頭を冷やすため、崇はリビングを出た。だが手に残った苛立ちのまま、ドアを強く閉めてしまった。乾いた音が廊下に響いた。
アスカはすぐに美咲へ鼻先を押し当て、ドアから離れるよう促した。美咲が廊下の奥へ移ると、その前に立って崇を見た。耳は伏せられ、体は美咲の進路を塞ぐ壁のようだった。
「アスカ、こっちへ来い」
以前なら尾を振って寄ってきたはずだった。だがアスカは動かず、崇から目をそらさなかった。
「由紀がそうさせたのか。僕を警戒するように、アスカにまで覚えさせたのか」
「お父さんが怖いって、決めつけないで」
アスカの背後から美咲が言った。崇は安堵し、ほら見ろと由紀に言いかけた。
「怖いって言ったら怒るから、怖くないって言うの」
美咲はアスカの背に片手を置いたまま続けた。
「いつも、お父さんを怒らせない答えを探してる。大丈夫って言えば、話が早く終わるから」
崇の頭に、反論がいくつも浮かんだ。怒っているのではなく説明しているだけだ。声が大きくなるのは、美咲が返事をしないからだ。ドアを閉めたのも、二人に当たらないためだった。
それを口にしようと息を吸った瞬間、美咲の肩が上がった。呼吸を止めた娘の前へ、アスカがさらに半歩進んだ。
アスカは由紀の顔を見ていなかった。崇の命令に逆らうためでもなかった。美咲の固まった指、詰まった息、逃げ道を探す足の向きに反応しているのだと、崇はようやく理解した。
調停室で証拠として差し出した「大丈夫」が、別の意味に変わった。それは同意ではなく、早く正解を出さなければならない娘の自己防衛だった。面会を増やす決定を得れば、自分は制度を使って、その答えを毎週言わせることになる。
「今日は帰る」
崇はそれだけ言った。謝れば許すと言ってもらいたくなる気がして、謝罪の言葉さえ今は返事を迫るものになると思った。由紀にも美咲にも反応を求めず、崇は玄関へ向かった。
翌週の平日午後、崇は再び家庭裁判所の調停室に座った。前回より厚くした資料を鞄に入れていたが、机の上には出さなかった。
「申立てを取り下げます」
由紀が顔を上げ、調停委員は崇の言葉を待った。
「美咲は、僕に自由に断れる状態ではありません。そのまま回数だけ増やせば、本人の希望ではなく、僕が望む答えを押しつけることになります」
崇は、怒りの制御を学ぶ支援プログラムに通うと伝えた。当面の面会は短時間にし、美咲がいつでも立ち去れる公共の場所に限りたいとも提案した。理由を説明せず断ってもよく、予定を決めたあとで変更してもよい条件にしたいと言った。
「すぐに信用できるとは言えません」
由紀はそう断ったうえで、言葉を続けた。
「でも、その条件なら、美咲の意思を確かめながら続けられると思います」
調停委員が取り下げの意思を確認した。崇はうなずいた。毎週会う父親にも、娘を泊める父親にもなれなかったが、それを失敗と呼ぶ資格さえ、今の自分にはないと思った。
それから崇は支援プログラムへ通い、短い面会を重ねた。美咲が黙ったときは質問を言い換えず、答えが出るまでの空白を埋めなかった。予定より早く帰りたいと言われた日は、理由を聞かずに見送った。
取り下げから数か月後の秋の午後、美咲はアスカを連れて市営公園へ来た。由紀は少し離れたベンチに座り、こちらを見守っていた。
アスカは崇を見つけても、美咲の脚のそばを離れなかった。崇は名前を呼ばず、手も伸ばさなかった。近くへ来てほしいという気持ちを、命令にも期待にも変えずに待った。
やがてアスカが美咲を見上げ、それからゆっくり崇へ歩み寄った。鼻先が崇の膝に触れ、アスカはその隣に腰を下ろした。温かな体がそっと寄りかかってから、崇は初めて背中を撫でた。
帰る時間になり、美咲はアスカのリードを持って立ち上がった。数歩進んだところで振り返った。
「次、再来週なら来られるけど」
崇はすぐに予定を確定したくなる衝動をのみ込み、一度息を置いた。
「ありがとう。その日が近くなって、嫌だったら変えていい」
美咲は返事を急がず、アスカと並んで立っていた。しばらくして小さくうなずくと、自分の歩幅で由紀の待つベンチへ向かった。崇は追わずに、その背中が遠ざかるのを見送った。
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