議長席の足もと

臨時総会を三週間後に控えた夜、マンションの集会室には、耐震診断報告書と規約改正案が並べられていた。森下邦彦は壁に貼った建物の図面を指し、柱の補強箇所と工事費を説明した。

「先送りすれば費用はもっと増えます。耐震改修には、皆さんの合意が必要です」

副理事長の田中正治が資料をめくる横で、坂井澄江は腕を組んだままだった。犬を隠れて飼う住民がいることは公然の秘密で、その鳴き声や廊下の毛をめぐる苦情が、改修の話し合いにまで影を落としていた。

邦彦はもう一冊の議案書を持ち上げた。全面禁止を登録制に改め、届け出、騒音対策、共用部での移動方法を定める案だった。

「禁止と書いてあるのに守られず、苦情の手順もない。これでは対立が深まるだけです。守れる規則に変え、その代わり責任を明確にしたい」

「それでは、破った者が得をするじゃありませんか」

坂井の声は硬かった。犬を飼っている住民側の藤田真紀も、すぐには反論せず、条文を読み直した。

「規則を現実に合わせることと、違反を見逃すことは別です」

邦彦はそう言い切った。二つの議案は理事会で正式に承認され、翌日、開催通知とともに全戸へ配付された。

その一週間後の夕方、妹の裕子が大きなキャリーケースと段ボール箱を引いて、マンションの裏口に立っていた。その足もとで、茶白のウェルシュ・コーギーが、短い尻尾の名残を懸命に振っていた。

「半年だけお願い。赴任が急に決まって、明日の朝には出ないといけないの」

「ここはペット禁止だ」

「え、そうなの? でも、もう預け先がないのよ」

裕子はポン太のフードや予防接種の証明書まで、半年分きちんとそろえていた。その几帳面さが、かえって邦彦を追い詰めた。

「総会まで二週間だ。規約が変わるまで、その二週間だけなら」

口にした途端、例外は半年ではなく二週間なのだと、自分に言い聞かせているのが分かった。裕子を見送ると、ポン太は議案書の山をぐるりと回り、邦彦の椅子の足もとへ当然のように伏せた。

翌朝から、邦彦は夜明け前に散歩へ出た。エレベーターを避け、ポン太を抱いて非常階段を下り、人影のない裏口から外へ出る。だが理事会の日程に合わせた短い散歩では、運動好きのポン太には足りなかった。

邦彦が議案書を抱えて部屋を出ようとすると、ポン太は素早く廊下までついてきた。短い脚で走る姿は勇ましかったが、邦彦は慌てて首輪をつかんだ。

「そこから先は駄目だ。おまえは議長席の足もとには来られないんだよ」

部屋へ押し戻すと、ポン太は首をかしげた。自分には住民全体の問題を扱う責任があり、犬一匹のために予定を変えるわけにはいかない。邦彦はそう正当化し、集会室へ急いだ。

会議で帰宅が遅くなった夜、廊下まで引っかく音が響いていた。玄関を開けると、ポン太は鳴くのをやめ、叱られると思ったのか、ぺたりと腹を床につけた。

「おまえが悪いんじゃない」

邦彦がしゃがむと、ポン太はその膝へ鼻を押しつけた。その素直さが、規約違反そのものよりも痛かった。

総会の一週間前、同じ音を聞いた坂井が隣室から出てきた。邦彦が扉を細く開けた瞬間、ポン太が鼻先で押し広げ、廊下へ顔を出した。

坂井は犬と邦彦を交互に見た。

「理事長のお宅ですよね」

「妹の犬です。急な海外赴任で、半年だけ預かることになって」

「半年だけなら、規約の外ですか」

邦彦は声を落とした。

「総会が終わるまでは、黙っていていただけませんか。改正案はこの犬を預かる前に提出しています。私のために作った案ではありません」

「では、今のあなたは誰のために例外になっているんですか」

坂井は口止めを約束しなかった。ただ、言いふらすこともなく、自室へ戻った。閉じた扉を見つめながら、邦彦は提出日という正しさだけを、胸の前に盾のように構えていた。

総会三日前の夜、準備理事会が開かれた。出席者と委任状の見込みを数えると、耐震改修も登録制も、可決に必要な票へ届く可能性があった。

坂井が資料から目を上げた。

「提案者自身が規約を守っているか、確認しておくべきではありませんか。公平性に関わります」

田中は意味を測るように邦彦を見た。

「議案に直接の利益関係があるなら、申告してください」

「改正案を提出したのは三週間前です。その時点で、私に個人的な利害はありませんでした」

邦彦が答えたのは日付だけだった。現在、部屋に犬がいるとは言わなかった。

藤田が静かに口を挟んだ。

「登録制にするなら、隠れて飼っている人も同じ手順で責任を負うべきです。理事でも一般住民でも、違反したときの扱いが同じでないと、制度は続きません」

帰宅すると、ポン太は椅子の足もとで丸くなった。邦彦が議案書を開いても、顔を上げるだけで邪魔をしない。手続き上の正しさを説明しながら、肝心の事実を伏せたことを、邦彦はもう誤魔化せなかった。

それでも告白すれば、登録制だけでなく耐震改修まで、理事長の私物だと疑われるかもしれない。邦彦は決めきれないまま、総会当日を迎えた。

午後の集会室は、折り畳み椅子が足りなくなるほど混み合った。定足数が確認され、邦彦は議長席から耐震改修案の費用と工期を説明し、続いて通知済みのペット登録制案を審議にかけた。

反対意見はあったが、質疑が進むにつれて条件付きの賛成が増えた。採決すれば、どちらも必要票へ届くかもしれない。邦彦は議事を終結させようとした。

そのとき、坂井が手を挙げた。

「内容を判断するためにも、提案者が公平であるか確認したいのです」

室内にざわめきが広がった。邦彦は「議案の内容と無関係です」と打ち切りかけ、言葉をのみ込んだ。

毎朝、廊下の手前でポン太を引き戻した感触が手に残っていた。椅子の足もとへ来たがる犬を追い払いながら、自分だけは規則の外に立ち、住民には公平を説いていた。

邦彦は議長席のマイクを握り直した。

「私から、申告があります」

ざわめきが止んだ。

「二週間前から、妹の犬を無届けで預かっています。規約違反です。坂井さんに、総会が終わるまで黙っていてほしいと頼みました。三日前の理事会でも、田中副理事長から利益関係を問われながら、犬がいる事実を伏せました」

邦彦は、改正案の提出日がポン太を預かる前だったことを議事録で示した。

「ただし、それを免責の理由にはしません。私は自分だけを一時的な例外にしました。従前の規則に従って処分を受け、理事長を辞任します。そのうえでお願いします。二つの議案は、私ではなく、内容で判断してください」

誰かが息をつく音が聞こえた。邦彦は田中へ議長を交代し、採決前の休憩を提案した。

休憩に入ると、住民たちは小さな輪に分かれた。坂井と藤田は同じ机につき、届け出期限、予防接種などの確認、苦情が出た場合の手順を一項ずつ詰めた。

「共用部では抱くこと。難しい大きさなら専用カートを使うこと」

坂井が言うと、藤田はうなずいた。

「違反があれば、まず事実確認、その次に警告。改善されなければ、飼育方法の是正を求める。誰に対しても同じ順番にしましょう」

通知済み議案の範囲を外れないよう田中が確認し、修正文案をまとめた。耐震改修についても費用負担と工期が再確認され、邦彦は輪の外で質問にだけ答えた。

総会が再開されると、田中が議長席に座った。修正された登録制案は必要多数で可決され、続く耐震改修案も可決された。

その後、邦彦には従前の規則違反について正式な警告が出された。理事長辞任も、本人の申し出どおり承認された。拍手はなく、邦彦も頭を下げるだけだった。

規約改正の施行日、邦彦は予防接種証明書などの必要書類をそろえ、期限内にポン太を届け出た。受付番号は一番だった。

数週間後の朝、邦彦は共用廊下でポン太を抱いて玄関まで運んだ。胴の長い体は思ったより重く、ポン太は腕の中で得意げに鼻を鳴らした。

外へ出て地面へ下ろすと、ポン太は短い脚で勢いよく歩き始めた。散歩道から見上げたマンションには、耐震改修の足場が組まれ始めていた。

坂井が向こうから来て、足を止めずに「おはようございます」とだけ言った。以前のような敬意が戻ったわけではない。それでも邦彦は同じ挨拶を返した。

玄関では、田中が工事予定表を掲示板に貼っていた。邦彦は理事長としてではなく、一住民として手伝えることがあれば知らせてほしいと申し出た。

ポン太がリードを軽く引き、邦彦の足もとへ戻ってくる。もう隠すために抱き上げる必要はなかった。

信頼は、傷のない権威から生まれるのではない。間違えた者が例外を求めず、自分も規則の内側へ戻ろうとするところから、ようやく始まるのだ。邦彦は足場の向こうの建物を見上げ、それから堂々と歩くポン太のあとを追った。

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