正直な譲渡票

月初めの早朝、相原紗季が犬舎の扉を開けると、テツは白と茶の小さな体をばねのように跳ねさせた。床を蹴り、柵へ前脚をかけ、早く外へ出せと全身で訴えている。紗季がリードを見せて「座って」と言うと、ジャック・ラッセル・テリアは震えるほど尻尾を振りながらも腰を落とした。

河川敷へ着くと、紗季はテツと三十分走った。草の匂いを追って先へ出ても、名前を呼べば振り向き、「待て」の声で止まる。息を切らした紗季がしゃがむと、テツは当然のように膝へ鼻を押しつけた。

施設へ戻ったところで、黒田所長が犬舎の前に立っていた。

「今月も譲渡目標は変わらない。正規登用候補の選考も月末から始める」

紗季は汗を拭きながらうなずいた。期限付き職員になって二年、正規登用はずっと望んできた席だった。譲渡件数が評価表の上段にあることも知っている。

足元ではテツが紗季を見上げ、次の合図を待っていた。これだけ人を信じ、指示も聞ける犬なら、家庭に入ってもうまくやれる。紗季はその頭を撫でながら、今月中にテツの譲渡を決めようと思った。

数日後の午後、運動場でテツはロープ玩具をくわえて走り回っていた。別の職員が回収しようと近づくと、テツは急に動きを止め、玩具へ顎を押しつけた。背中が硬くなり、喉の奥から低い唸り声が漏れた。

紗季はすぐに匂いの強いおやつを取り出した。目の前に示すと、テツはロープを放して紗季の手からおやつを食べた。その後は紗季が玩具へ手を伸ばしても唸らず、渡す、返すを何度も繰り返した。

事務室に戻った紗季は、譲渡票の行動欄を開いた。「遊びの最中に興奮することあり。おやつで切り替え可能」と入力し、指を止めた。体の硬直も、相手が別の職員だったことも、書けば深刻に見えすぎる気がした。

そのとき、藤本一家から面会希望が届いた。両親と七歳の息子の三人暮らしで、活発な犬を希望している。子どもと遊べる庭があり、毎日散歩もできるという記載を見て、紗季は日程を同じ週の土曜日に決めた。

土曜日の午後、面会室へ入ったテツは、藤本一家の周囲を素早く回って匂いを嗅いだ。紗季が合図すると足元へ戻り、悠太が笑い声を上げた。

「散歩が大好きで、合図もよく聞けます。運動する時間をしっかり取ってもらえれば、とてもいい相棒になります」

悠太がボールを投げると、テツは床を蹴って追い、すぐにくわえた。悠太はもう一度投げようとして、ためらいなく手を伸ばした。

テツの動きが止まった。前脚でボールを押さえ、首を低くする。次の瞬間、唇がめくれ、白い歯の間から低い唸り声が響いた。

「悠太くん、下がって」

紗季は子どもとテツの間へ手を入れず、悠太を後ろへ下がらせた。それから高価値のおやつをテツの鼻先より離れた床へ投げる。テツがおやつへ移った隙にボールを回収し、面会室の棚へ置いた。

藤本夫妻の表情は固まっていた。紗季は速くなる鼓動を抑えながら、いつもの説明を口にしかけた。

「環境に慣れれば、今のような反応も――」

その先が続かなかった。悠太は母親の背後へ隠れ、服を握ったままテツを見ていた。紗季は自分が安心させようとしているのが、家族のためではなく、譲渡を成立させるためだと気づいた。

「今日の面会は、ここで中断させてください。こちらで行動を確認し直します」

一家を見送った夕方、紗季は事務室に残り、運動場の映像と日誌を古い順に開いた。画面の中のテツは、紗季と遊ぶときには軽やかに動いている。だが別の職員が玩具へ近づいた場面では、耳も尾も止まり、相手を凝視していた。

別の日の映像では、職員が二歩離れてもテツは玩具に顎を乗せたまま唸っていた。紗季が画面へ入ると、ようやく口を開いている。紗季に渡せることは問題が消えた証拠ではなく、信頼関係のある一人にだけ成立する条件だった。

記録には「興奮」「切り替え可」という自分の言葉が並んでいた。映像の硬直と沈黙を、紗季自身が小さな表現に押し込めていた。

夜になってから、紗季は藤本家へ電話をかけた。

「今日の反応は、玩具を守る資源防衛と考えるべきものでした。以前にも兆候があったのに、私の記録と説明が不十分でした。申し訳ありません。施設側の判断として、今回の譲渡手続きは中止します」

電話を終えると、紗季は譲渡票を訂正した。「玩具に対する資源防衛あり。慣れない人が接近すると硬直、凝視、唸りが出る。子どものいる家庭への即時譲渡は不可。交換訓練と再評価が必要」。書き終えた文章は厳しく見えたが、映像に映っていた事実より厳しくはなかった。

翌朝、紗季は訂正前後の譲渡票、面会記録、映像をそろえて所長室へ入った。黒田は二枚の譲渡票を見比べ、長く黙った。

「私は譲渡を急いで、危険な兆候を軽く書きました。テツが私に渡せることを、誰にでも渡せることのように考えました」

紗季はテツを即時譲渡の対象から外し、行動評価を再実施する案を出した。子どものいない経験者宅で、短時間から段階的に預かってもらうこと。玩具を奪わず、より価値の高いおやつと交換し、放したあとには玩具を返す手順を統一することも説明した。

さらに、新しい記録書式を机に置いた。硬直、凝視、唸りの有無だけでなく、守った物、相手、距離、放すまでと回復までの時間を記す欄がある。職員評価にも、譲渡件数だけでなく返還率と譲渡後の安定を加えてほしいと提案した。

「省略したのは私です。でも、件数だけを急げば、同じ書き方をする人がまた出ます。失敗を個人の反省だけで終わらせたくありません」

黒田は映像を止め、画面の中で歯を見せるテツを指した。

「今回は咬傷事故になり得た。記録を曖昧にした責任は重い。今年の正規登用選考からは外す」

胸の内側が沈んだ。紗季は膝の上で手を握り、それでも黒田から目をそらさなかった。

「受け入れます。そのうえで、テツの長期訓練を担当させてください」

黒田はしばらく考え、再評価と訓練計画、新しい記録基準の試験導入を認めた。

それから数週間、紗季は施設の運動場で交換訓練を続けた。テツが玩具をくわえている間は手を伸ばさず、十分な距離からおやつを見せる。テツが自分で口を開いた瞬間を記録し、おやつを与えたあとで玩具を返した。

相手との距離、硬直の有無、放すまでの秒数を毎回書いた。成功が続いてから、立つ位置や玩具の種類を一つずつ変えた。条件を一度に変えれば、何がテツを不安にしたのか分からなくなるからだ。

子どものいない家庭で暮らし、課題のある犬の預かり経験を持つ森田修司が訓練に加わった。森田はまず施設で紗季の手順を学び、テツの正面へ立たず、手も出さずに待った。

短時間の訪問から日帰りへ、日帰りから一泊へと、預かり時間を延ばした。森田の自宅でテツがロープ玩具を守り、体を硬くした日は、次の予定を進めず短時間の訪問へ戻した。紗季はその失敗も「交換不可」と書かず、距離と視線と放すまでの時間をそのまま共有した。

やがてテツは、森田の前でも合図と交換で玩具を放す場面が増えた。記録書式はほかの犬にも使われ、職員たちは「興奮した」だけではなく、何が起き、どれほど続いたかを書くようになった。

三か月後、紗季は森田の自宅の庭を訪れた。森田がボールを投げると、テツは勢いよく追い、くわえて戻ってきた。森田は手を出さず、声も急がせずに待った。

テツは足元で一度森田を見上げた。それから口を開き、自分からボールを落とした。森田が次の合図を出すまで、テツは四本の脚で静かに立っていた。

紗季は成功した条件を記録した。同時に、今後も子どものいる家庭を避け、管理と訓練を継続する必要があると譲渡票へ残した。一度放せたという事実で、残る危険まで消してはならなかった。

施設へ戻ると、黒田から改定された評価指標を渡された。譲渡件数の下に、譲渡後の返還率、一定期間の安定、行動記録の精度という項目が加わっていた。

「正規登用ではない。ただ、長期訓練担当として契約を更新する」

紗季は書類を受け取った。失った席が戻ったわけではない。それでも、庭で森田の足元へボールを置いたテツの姿を思い出すと、急いで手放すことだけが出口ではないと分かった。

絆とは、自分が救い主になることではない。相手に必要な時間と、都合の悪い真実まで引き受けることなのだと、紗季は訂正を重ねた譲渡票を見ながら思った。

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