最後の予約票

閉店まで、あと三週間。

木葉書房の帳場で、田辺奈津子は古い帳面に数字を並べた。在庫の値下げ率、売れ残った本の廃棄費用、最終月の家賃と光熱費。紙と木の匂いが染みついた店を、借金ひとつ残さず畳むには、どの数字も動かせなかった。

家主には、もう更新しないと伝えてある。七十一歳まで続けたのだから十分だと、奈津子は自分に言い聞かせた。

「放課後、毎日来ます。値札も箱詰めもできます」

制服姿の高瀬碧が言うと、足元でミニチュアダックスのロクが短い尾を振った。

「受験を控えた子どもが背負うことじゃないよ。これは私の店の始末だから」

「でも、私、この店にずっと――」

「感傷で片づく量じゃないの」

奈津子は帳面を閉じた。助けてもらえば、借りができる。借りを返す店は、三週間後にはもうない。

それでも碧は店に通い続けた。

閉店十八日前の夕方、二人は奥の棚に半額の札を付けていた。碧が使っていた鉛筆が床に落ち、ころころと棚の下へ転がると、ロクが腹を擦るように追いかけた。

鼻先が届かなかったらしく、ロクは棚の奥を前脚で激しく引っかいた。

「鉛筆一本で棚まで壊さないでおくれ」

奈津子と碧が重い棚を少しずつ動かすと、埃の中から黄ばんだ紙が三枚現れた。鉛筆ではなく、古い予約票だった。

奈津子は一枚目を拾い、息を止めた。四年前の日付、書名、客の住所。その脇に、赤い字で前払い済みと記されている。

残る二枚にも、同じ印があった。

「改装のときだ。伝票箱から滑ったんだ……」

三枚の紙は、棚の下で四年もの間、誰にも見つけられずにいた。奈津子の手から、乾いた紙の音がした。

翌日から、碧は奈津子の許しを得て古い顧客台帳を調べた。電話番号を照合し、店の電話から一人ずつ連絡を入れた。

一人目の吉岡惣一は、亡くなった妻が愛読していた絶版詩集を予約していた。

「もう入らないものと思っていました。でも、見つかるならお願いしたい。妻の命日に、あの人が好きだった頁を読みたいんです」

二人目の松井真帆は、勤め先の保育園で読み聞かせるために絶版絵本を頼んでいた。

「今も同じ園にいます。昔、私が読んでもらった物語なんです。今の子どもたちにも読めたら、うれしいです」

三人目の佐伯悠斗は、予約当時は高校三年生だった。さまざまな仕事を綴った随筆集を、進路を決められずにいたとき注文したという。

「今は家具職人の見習いです。あの本、今だから読みたい気がします」

誰も奈津子を責めなかった。返金でもよいとは言わず、三人とも静かに、本を待つと答えた。

碧はそれぞれの言葉と連絡先を一枚の調査メモにまとめた。奈津子は三枚の予約票を前にして、何度も指先を組み直した。

閉店十四日前から、二人は本を探した。碧はスマートフォンで古書店の在庫を調べ、奈津子は昔なじみの業者へ電話をかけた。

三冊は、それぞれ別の店に一冊ずつ残っていた。だが希少本になった価格に速達送料を足すと、閉店資金から出せる額を大きく超えた。

「買えば、廃棄費用か最後の家賃が足りない」

奈津子が帳面を碧へ向けると、数字はどこにも逃げ道を残していなかった。

「募金を集めるのは? 私、もっと手伝います。処分する本をネットで売れば――」

「客に店の損失を埋めさせるのかい。まして、あんたに背負わせるなんてできない」

奈津子は強く言い切った。三冊をそろえれば、借金なく閉める計画が崩れる。計画を守れば、四年間残った約束を破ることになる。

閉店十一日前の夜、奈津子は一人で帳簿を見直した。ロクだけが帳場の下に伏せ、時折、奈津子の足へ鼻を寄せた。

前払金を返し、頭を下げよう。それが今できる、最も現実的な始末だ。

奈津子はそう決めると、三冊の在庫情報と三人の言葉が書かれた調査メモを丸め、ごみ箱へ捨てた。碧には、まだ知らせなかった。

翌朝、ロクがごみ箱へ鼻を突っ込み、丸めた紙をくわえて引き出した。ちょうど店へ入ってきた碧が拾い、皺を伸ばした。

「これ、どうして捨てたんですか」

「返金することにした。店を潰してまで仕入れるわけにはいかない」

「忘れてしまったことを怒ってるんじゃありません」

碧の声は大きくなかった。それだけに、奈津子には逃げ場がなかった。

「まだ果たせるって分かったのに、忘れたふりをするのが悲しいんです」

「十五のあんたに、店の何が分かる」

言い返した瞬間、奈津子は自分の声に怯えた。守ろうとしているのは店の信用ではない。誰にも頼らず、失敗さえ自分だけのものにしておきたい、孤立した誇りだった。

奈津子は長く黙ったあと、皺だらけの調査メモを碧から受け取った。

「悪かった。捨てるべきなのは、これじゃなかったね」

閉店十日前、奈津子は自宅の書棚から三冊の本を取り出した。木葉書房を開いた頃から集めてきた郷土作家の署名本で、雨の日も移転のときも、自分の手で守ってきた私蔵本だった。

店へ運ぶと、碧は目を見開いた。

「売るんですか」

「本は、しまっておくだけでも本だけどね。今は、この三冊に約束を果たしてもらう」

奈津子は碧に、専門古書店の査定額を比べるよう頼んだ。梱包も二人で行った。助けを借りとして数えるのではなく、同じ仕事を担うこととして受け取るのは、思ったより難しく、思ったより温かかった。

署名本の買取金で不足分を補い、三つの古書店へ注文を出した。閉店七日前までに詩集、絵本、随筆集が順に届くと、奈津子と碧は頁の抜けや傷みを確かめ、新しい包み紙で一冊ずつ包んだ。

ロクは足元で、ほどけた紐を狙っていた。

閉店三日前、二人は吉岡の家を訪ねた。吉岡は包みを開くと、詩集の色あせた表紙を掌でゆっくり撫でた。

「妻の命日に間に合いました。今度は、声に出して読んでやれます」

「四年も遅くなりました。申し訳ありません」

奈津子が頭を下げると、吉岡は詩集を胸元へ寄せた。

「届いたのなら、予約は果たされたんです」

翌日、松井の勤める保育園へ絵本を届けた。松井は子どもたちの前で表紙を開き、最初の読み聞かせを聞いていってほしいと二人を招いた。

頁がめくられるたび、子どもたちは声を上げたり、息を潜めたりした。奈津子は、物語が新しい耳へ渡っていく音を聞いた。

閉店前日には、佐伯の働く家具工房を訪ねた。佐伯は木屑のついた手をきれいに洗い、随筆集を受け取った。

「高校のときは、仕事を選べば迷いが終わると思っていました。でも、迷った時間も今の仕事につながってるんですね」

若い職人の後ろには、削りかけの木材が積まれていた。奈津子が遅れを詫びると、佐伯は笑って、本を大事そうに作業台の端へ置いた。

閉店日の夕方、木葉書房の棚はすべて空になった。壁や床には、長く本が置かれていた場所だけ色の違う四角が残っていた。

奈津子は受領済みの印を押した三枚の予約票を、帳簿の最後の頁へ挟んだ。売上と支払いを確認すると、署名本の売却分を含め、収支はわずかに黒字だった。家賃も光熱費も廃棄費用も払い終え、借金は残らない。

「地域センターに、小さい本棚ができるんです」

碧が空の棚の前で言った。

「月に一度、本を入れ替えるんですけど、一緒に選んでもらえませんか」

奈津子は、もう引退したのだからと断りかけた。だが足元ではロクが碧の靴に顎をのせ、当然のように次の返事を待っていた。

「月に一度ならね」

二人で最後の照明を消した。紙と木の匂いを残した暗がりに背を向け、奈津子はシャッターを下ろした。

それから一か月後の日曜日、奈津子と碧は地域センターの図書コーナーにいた。小さな木製棚へ並べる本を、机いっぱいに広げている。

碧が子ども向けの一冊を差し出すと、奈津子はすぐには決めず、薦める理由を尋ねた。碧の答えを最後まで聞いてから、うなずいた。

「では、それを入れよう。蔵書印は、あんたが押して」

碧は緊張した手つきで印を持ち、見返しへまっすぐ押した。足元ではロクが丸くなり、眠そうに鼻を鳴らした。

店の価値は、建物でも在庫でも、自分が抱えていた蔵書でもなかった。誰かの読みたい気持ちに応え続けるという、形のない約束だったのだ。

奈津子は新しい印の乾くのを待ちながら、次に棚へ入れる本を碧と選び始めた。

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