採用試験の一週間前、訓練校の実習室には、乾かしたばかりの犬の毛と消毒液の匂いが残っていた。西野遥が作業台を拭き終えると、講師が一枚の募集要項を差し出した。
「このサロン、受けてみない? 基礎は十分身についているし、今の西野さんなら挑戦できると思う」
大手ペットサロンの採用試験。要項には、速さ、仕上がり、接客対応と並んで、連携という評価項目が記されていた。それでも遥の目には、四十五分以内という実技試験の制限時間ばかりが大きく映った。
販売職に就いていた頃、遥は分からないことがあっても質問できなかった。忙しそうな同僚へ声をかけるのが怖く、頼まれた仕事を断れず、失敗は残業で埋め合わせた。やがて朝、制服に着替えるだけで息が苦しくなり、二十六歳で退職した。
「速い職場は、少し不安です」
「速さだけを見る試験じゃないよ。飼い主さんへの説明も、周りとの連携も仕事のうちだから」
講師はそう言ってから、少し間を置いた。
「一人で全部できることだけが、働ける証明じゃない」
その言葉に、遥はすぐにはうなずけなかった。訓練校で学び直した今度こそ、誰にも迷惑をかけずにやり遂げられる人間だと証明したかった。それでも募集要項を返さず、遥は「受けます」と答えた。
試験当日の午前、サロンの実技室には作業台が二台ずつ区切られ、受験者たちが並んでいた。監督の黒田が、壁の時計を示しながら説明を始めた。
「二人一組で二頭を担当し、四十五分以内に仕上げてください。採点は個人ごとです。仕上がりと速度に加え、安全確認や必要な報告も評価します」
遥と同じ区画に入ったのは、美緒という受験者だった。互いに短く名乗り、担当犬を確認する。美緒が別の犬を受け取り、遥の前には茶色のトイプードル、ルルが乗せられた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
それ以上の相談はなかった。個人評価という言葉が、二台の作業台の間に見えない線を引いていた。相手の作業に口を出すのは邪魔になるし、助けを借りれば自分の評価ではなくなる。遥には、美緒も同じように考えているように見えた。
開始の合図が鳴り、秒針が動き出した。
最初の十分、ルルは落ち着いていた。遥が胴の毛を整え、後脚の足回りをそろえても、細い尾を時折動かすだけだった。訓練どおりに進んでいる。そのことに安心しながら、遥は前脚の爪へ移った。
前脚を取ろうとした瞬間、ルルが口元をぺろりとなめた。顔を横へそらし、背中から脚までを一本の棒のように固くする。遥は手を離し、声の調子を柔らかくした。
「大丈夫だよ。少しだけね」
もう一度、正面から前脚へ手を伸ばす。ルルは再び口元をなめ、顔をそらした。遥が指をかけると、前脚がわずかに引かれた。
持ち方が悪いのだと思い、角度を変えた。声をかける間が短かったのかもしれないと考え、次はゆっくり呼吸を合わせた。けれど、手を離せば体を緩めるルルは、遥が前から触れようとするたび同じように固くなった。
時計を見ると、開始から二十五分が過ぎていた。胴も後脚も予定どおりなのに、前脚だけが終わらない。美緒に気づかれる前に解決しなければと焦るほど、遥の視線はルルの爪と自分の指先だけに狭まっていった。
三十分が経った頃、美緒は担当犬の仕上がりと安全を確認し、黒田へ引き渡した。
「残り十五分です」
室内に黒田の声が響いた。美緒は道具を片づけながら、遥の作業台を見た。遥が手を引くとルルの肩が下がり、正面から覆うように近づくと、また体が固くなる。その変化を、美緒は離れた位置から追っていた。
二度、目が合った。美緒の唇が動きかけたが、声にはならなかった。遥も視線の意味に気づきながら、爪切りを持ち直した。ここで助言を受けたら、基本もできない受験者だと思われる。
今度こそと手を伸ばすと、ルルが小さく前脚を引いた。爪切りの刃先が爪の脇をかすめ、遥の胸が冷たくなった。このまま急げば、時間には間に合ってもルルを傷つけるかもしれない。
遥は爪切りを台に置いた。喉の奥が詰まり、声を出すまでに一度息を吸わなければならなかった。
「美緒さん」
美緒がすぐに振り向いた。
「私の手の出し方を、見てもらえますか」
言い終えた瞬間、遥は負けを申告したような気がした。だが、美緒は評価表にも時計にも目をやらず、ルルから少し離れた位置に立った。
「前脚に触ること全部が嫌というより、遥さんが正面から近づくときに反応が強いです。上から覆われる感じが怖いのかもしれません」
自分一人では見えなかった違いが、短い言葉で形になった。遥は推測のまま続けず、美緒と一緒に黒田を呼んだ。
「ルルが前脚への接触で固まります。特に正面から近づいたときに反応が強いようです。担当記録を確認させてください」
黒田は作業を止めた理由を聞き、飼い主から預かった記録を開いた。そこには、ルルが以前に前脚を痛めたこと、治ったあとも脚を保持されると怖がる場合があることが記されていた。
「補助をつけて構いません。無理に押さえず、反応と対応を記録してください」
許可を得ると、美緒はルルの横へ回った。正面を塞がない位置から、手のひらで胴をそっと支える。遥はしゃがんで目線を下げ、爪切りをルルに見せた。
ルルは道具へ鼻を寄せ、匂いを確かめた。口元をなめる回数が減り、背中の力が少し抜ける。遥はすぐには脚を取らず、その変化を待った。
「今なら、一本いけそうです」
美緒の言葉に、遥は横から前脚へ触れた。強く保持せず、一本切るたびに離す。ルルが顔をそらせば手を止め、道具を見せ直してから次へ進んだ。
「四十五分、終了です」
合図が鳴ったとき、右の前脚が残っていた。遥の肩が跳ねたが、美緒は支える力を変えなかった。
遥は黒田へ顔を向けた。
「安全を優先して、このまま継続します」
黒田がうなずく。遥は速度を上げず、ルルの呼吸が整うのを待った。終了から五分後、最後の一本を整えて手を離すと、ルルは四本の脚で立ち、体をぶるりと振った。
作業後、遥と美緒は記録用紙を挟んで座った。正面から前脚へ近づくと口元をなめ、顔をそらして身を固くしたこと。過去の痛みを担当記録で確認したこと。横から支え、道具を先に見せ、一度に一本ずつ行うと緊張が和らいだことを、二人の名前で提出した。
試験から三日後、自宅に届いた通知には、六か月の研修採用と書かれていた。最速の受験者は正規採用だったと知り、遥は紙を持ったまま長く座っていた。落ちたわけではない。けれど、時間を越えた自分に与えられた、中途半端な結果のようにも思えた。
同日、サロンの面談室へ行くと、美緒にも同じ研修採用が提示されていた。向かいに座った黒田は、二人の評価表を机に置いた。
「速度では首位ではありません。ただ、異常を隠さず相談し、記録を確認して手順を変えた。補助の役割も分け、次の担当者が同じ失敗をしない記録を残しました。そこを評価しています」
遥は膝の上で指を組んだ。
「時間を越えたのに、ですか」
「速さは研修で伸ばせます。でも、危険を一人で抱え込む習慣は、本人だけでなく現場全体の事故につながります」
遥は通知を見直した。正規採用ではないことばかりを見れば、足りなかった結果だった。だが六か月は、一人で完璧になるためではなく、安全に働く方法を身につけるための時間でもある。
「研修採用を、お受けします」
隣で美緒も、はっきりとうなずいた。
研修初日の午後、遥はスタッフルームで担当記録を整理していた。午前に担当した犬の皮膚に赤みがあり、処置欄を前に手が止まる。以前の遥なら、教本の記憶だけで判断し、あとで困らないよう自分の手帳にだけ書いていただろう。
遥は席を立ち、黒田のところへ行った。
「皮膚の赤みについて、確認したいことがあります。飼い主さんへの聞き取りと記録の残し方を教えてもらえますか」
黒田に教わった確認事項を、遥は個人用のメモだけでなく、全員が読める共有表へ入力した。そこには試験日に作ったルルの担当記録も移されていた。前脚へは横から近づくこと、道具を先に見せること、美緒と西野の連名が画面に残っている。
同じ研修用の名札をつけた美緒が、その記録に目を通した。
「これなら、次の人も分かりますね」
「うん。私たちも忘れない」
遥は質問したことを謝らなかった。共有表を保存し、次の担当犬の記録を開く。分からないことがなくなったわけではない。それでも今度は、一人で分からないままにしない働き方を始められると思った。
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