譲渡欄の空白

九月初旬の土曜朝、陸が犬舎の扉を閉めて三歩離れると、背後で甲高い声が弾けた。振り向けば、ミニチュア・シュナウザーの麦が後ろ脚で立ち、前脚を金網にかけている。陸が戻ると、麦は何事もなかったように四つ脚を床へ下ろし、灰色の眉毛を揺らして見上げた。

もう一度離れる。吠える。戻る。静まる。陸はそれを三回繰り返し、犬舎の日誌に「人が見えなくなると吠える。扉を引っかく」と書いた。

「慣れれば治るよな」

麦の顎を撫でると、硬い毛の下から温かな体温が返ってきた。麦は人のそばでは聞き分けがよく、餌を取らず、散歩でも強く引かない。見えなくなったときだけなのだと、陸は欠点の輪郭を小さく囲った。

事務室へ戻ると、施設長の黒田真紀が書類を整理していた。黒田は陸を呼び止め、六週間後に獣医系奨学金の推薦候補を最終審査すると告げた。

「活動時間だけでなく、担当した犬の譲渡成立も加点になる。ただし、急いで決めるための制度じゃないからね」

「分かってます」

陸は答えながら、壁の予定表を見た。六週間あれば、麦を送り出せる。そうすれば、獣医を目指してきた時間を、誰の目にも見える成果に変えられると思った。

翌週の日曜午後、面談室で麦は武田澄江の膝に鼻先を寄せていた。武田は白い毛の混じった頭を屈め、驚かせないようにゆっくりと麦の背を撫でた。

「一人暮らしですけれど、ほとんど家におります。週に一度、通院で二、三時間出るくらいで」

武田の住まいは犬の飼育が認められ、散歩の時間も確保できる。面談票の条件はきれいにそろっていた。陸は行動特性確認書へ目を落とし、「留守番が苦手」という欄の前でペンを止めた。

「この子、お留守番はできますか」

「最初は少し鳴くかもしれません。でも、環境に慣れれば問題ないと思います」

嘘ではない、と陸は思った。まだ新しい家で試していないのだから、治らないとも決まっていない。空白の欄を残したまま確認書を面談資料へ綴じると、紙の端はほかの書類とぴたりと重なった。

武田は安心したように頷き、麦の耳の後ろを撫でた。麦は目を細めてその手に身を預けた。一週間の試験譲渡が承認され、陸は胸の内で最終審査までの日数を数えた。

試験譲渡初日の夕方、武田の家に置かれた新しい寝床で、麦は前脚をそろえて伏せていた。餌も残さず食べ、武田が台所へ立てば、その姿を目で追いながら静かに待った。

「本当におとなしい子ですね」

武田が笑うと、陸も頷いた。ただ、帰り支度を始めた途端、麦が玄関へ先回りし、扉と陸の顔を交互に見た。爪が一度だけ、床を硬く鳴らした。

「最初の数日は、なるべく一緒にいてあげてください」

陸はそれだけ伝えた。単独にする時間を少しずつ延ばす方法も、扉を引っかく可能性も口にしなかった。人がいる間は、実際にうまくいっている。その光景が、自分の判断の正しさを証明しているように見えた。

帰りの電車で、陸は推薦用の活動報告をスマートフォンに開いた。「担当犬」の欄に麦と打ち込み、「譲渡成立」と続けかけて、まだ早いと消した。消した文字の跡は画面には残らなかった。

試験譲渡四日目の昼、陸と黒田が武田宅へ着くと、玄関扉の下部に白い筋が何本も走っていた。麦は武田の足元で震え、前脚の爪の根元が赤くなっている。

「病院から戻ったら、ずっと吠えていたとお隣に言われて……。扉も、こんなにしてしまって」

武田は麦ではなく、自分が叱られるのを待つように頭を下げた。留守にしたのは二時間余りだったという。陸が近づくと、麦は鼻を鳴らして脚にすがりついた。

「急に長く留守にしたから、驚いたのかもしれません」

口から出た言葉は、傷のついた扉より先に武田を責めていた。武田は「そうですよね、私の準備が」と小さく言い、さらに肩を縮めた。

その日の夕方、施設へ戻された麦を犬舎に入れたあと、黒田は事務室の机に二種類の書類を並べた。一方は、陸が何度も吠えと引っかきを記録した日誌。もう一方は、「留守番が苦手」の欄だけが白い確認書だった。

「水野君。知っていた事実を、ここに書いた?」

陸は空白を見つめた。記入漏れだったと言えば、まだ間違いで済むかもしれない。しかし、あの日ペンを止めた自分の指を覚えていた。

「……書いていません」

黒田は麦の試験譲渡を中止し、行動の再評価が済むまで譲渡停止にすると告げた。陸については犬の直接担当から外し、推薦資料の提出も保留にする。その声は静かだったが、陸には犬舎で扉を掻く音より鋭く聞こえた。

翌日の放課後、陸は施設長室で報告書を前にしていた。武田が事前の留守番練習をしなかったと書けば、施設側の説明不足は薄まり、自分の処分も軽くなる余地があった。

けれど、麦を返すときの武田は、何度も「ごめんなさい」と言っていた。知らされなかった人が謝り、知っていた自分が評価を守ろうとしている。その並びを思うと、陸は報告書の責任欄を埋められなかった。

「空白は記入漏れじゃありません。譲渡が遅れると思って、僕が書かないと決めました」

黒田はすぐには答えず、陸の前へ新しい紙を置いた。奨学金推薦委員会宛ての自己申告書だった。

陸は、麦の行動を把握しながら引き継ぎ事項から省いたことを書いた。最後に、譲渡実績による加点を辞退すると記し、自分の名前を署名した。ペン先を離したとき、推薦そのものも失ったのだと思った。

「直接担当には戻せない」

黒田は書面を受け取り、続けた。

「ただし、麦の再評価に必要な観察記録なら、私の監督下で取り直していい。譲渡を急ぐためじゃなく、この子に必要な条件を明らかにするために」

それから三週間の週末、陸は黒田の指示で麦の反応を測り直した。朝と夕方、人との距離、扉の有無、姿が隠れてから吠えるまでの秒数。以前なら「留守番が苦手」の一行で済ませたことを、条件ごとに分けて書いた。

麦は、人が遠くても見えていれば伏せて待てた。近くにいても扉の向こうへ消えると立ち上がり、鼻を鳴らし、やがて前脚をかけた。陸は落ち着かせるために手を出さず、黒田のそばで時間と行動を記録した。

ある土曜、散歩の途中で関口自転車店の前を通ると、店主の関口修が麦に水を出してくれた。関口は店奥の作業台へ戻り、車輪を回して歪みを確かめ始めた。麦は店先に座り、回る車輪の向こうに関口の姿が見えているかぎり、一度も吠えなかった。

翌週も立ち寄り、黒田の許可を得て滞在時間を延ばした。工具の音がしても、関口が奥に見えていれば、麦は前脚に顎を載せて待った。関口が棚の陰へ入ると立ち上がったが、姿を見せるとすぐ座り直した。

「留守番ができないというより、人が消えるのが怖いんだな」

関口は麦から目を逸らさずに言った。店は一人で営んでおり、日中の大半は奥の作業場にいるという。作業場へ犬を入れることもできると聞き、陸は胸の奥に浮かんだ期待を、今度は結論に変えなかった。

「この子には、そういう環境が合うかもしれません。でも、吠えることも、扉を掻くこともあります」

陸は記録にあることを残らず話した。関口がそれでも関心を示すと、陸は生活環境の合う候補として黒田へ提案した。そして公平を期すため、以後の面談と審査には自分を関わらせないでほしいと申し出た。

十月下旬の土曜朝、黒田は事務室に陸を呼んだ。窓の向こうでは、別の職員に連れられた麦が散歩へ出るところだった。陸は立ち上がりかけたが、直接担当ではないことを思い出し、椅子に座り直した。

「関口さんへの正式譲渡が決まった。複数回の面会と作業場での滞在試験、それから短時間から延ばす留守番試験も終えた。安全区画も設置してくれたそうよ」

陸は息を吐いた。喜びは胸に広がったが、自分が送り出したのだという形にはならなかった。

「それと、推薦委員会から返事が来た。隠したことも、自己申告と再記録の過程も含めて審査した結果、推薦は認める。ただし、麦の譲渡成立はあなたの実績には加算されない」

陸はしばらく黙り、それから机上の新しい行動記録を開いた。時間、環境、反応、対策。すべての欄を指で追い、記入漏れがないことを最後まで確かめてから黒田へ渡した。

正式譲渡日の夕方、陸は引き渡しには立ち会わなかった。完成した記録は担当職員へ渡し、手続きが終わった頃を見計らって、一人の客として関口自転車店を訪れた。

作業場には腰ほどの高さの安全柵が設けられていた。その内側で、麦は前脚を伸ばして伏せ、関口が自転車のチェーンを調整する姿を見ている。工具が触れ合う乾いた音の間にも、吠え声はなかった。

「麦」

陸が店先から呼ぶと、麦は耳を跳ね上げて駆け寄った。柵越しに差し出した手へ鼻先を押しつけ、硬い眉毛を指にこすりつける。けれど関口が作業台へ移ると、麦は一度陸を振り返ったあと、その足元へ戻って伏せた。

「ここなら、見失わないからな」

関口はそう言って、麦の背を一度撫でた。陸は頷き、別れの言葉を重ねなかった。

店を出ると、夕方の風が制服の裾を揺らした。鞄の中には、空白のない行動記録の控えが入っている。麦の譲渡は陸の点数にはならず、もう陸の担当でもなかった。

それでも、背後の店からは工具の音だけが聞こえた。陸は振り返らずに歩き出した。助けたことを自分のものにするより先に、失敗の責任だけは手放さずに持っていく、その重さを鞄の底に感じながら。

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