最終便の毛布

最終便の出航まで二十五分だった。

浜口蒼は旅行鞄を引き、港へ続く坂道を下っていた。鞄には面接用のスーツと最低限の生活用品、都市で借りた部屋の契約書が入っている。ポケットの切符は片道だった。

郵便局には、休暇を使って本土へ私用で出るとしか伝えていない。翌日の面接が終われば借りた部屋に入り、退職届と局の鍵は郵送するつもりだった。期待されて失敗するより、誰にも期待されないまま消えるほうが楽だと、蒼は考えていた。

待合所を抜けると、乗船口の前に人だまりがあった。転任する教師の久美と、教え子の美緒、それに垂れた耳のビーグル、ハルがいる。そばには犬用のケージが置かれていた。

最終便へ載せる郵便物を係員に渡し終えた宮本が、蒼を見つけた。

「ずいぶん大きな鞄だな。私用って、何泊するんだ」

「まだ決めてません」

嘘ではない形に整えた返事をして、蒼は目をそらした。その先で、美緒が色あせた毛布を胸に抱き締めていた。ハルの寝床だった、端の擦り切れた毛布だ。

出航十五分前、久美が美緒の前にしゃがんだ。

「美緒ちゃん、それをケージに戻してくれる? 船の中でハルが眠れるように」

「これがあれば、ハルはここで眠れる」

美緒は毛布を抱いたまま動かなかった。ハルは彼女の足元に伏せ、鼻先を毛布へ押しつけている。久美が静かにリードを引くと、ハルは前脚を突っ張り、床へ腹をつけた。

「ハル、おいで」

久美がもう一度呼んでも、ハルはケージを見ようとしなかった。抱き上げようと手を伸ばしかけた久美は、美緒の強張った顔を見て手を止めた。

「力ずくで離したら、ハルも興奮します。美緒ちゃんに、そんな別れ方をさせたくありません」

係員が時計を見た。

「乗船締め切りまで十分です。安全に乗れる状態にならないと、こちらでも通せません」

この船を逃せば、蒼は翌朝の面接に間に合わない。借りた部屋も、転居の手配も、黙って消えるために組み立てた予定も崩れる。

出航八分前、蒼は係員へ詰め寄った。

「毛布を預かって、犬を抱えて乗せればいいでしょう。子ども一人と犬一匹に、最終便を遅らせるんですか」

「無理に引き離す権限はありません」

「私も、そうしたくありません」

久美の返事に、蒼は舌打ちしそうになるのをこらえた。それから美緒の前へ行き、できるだけ穏やかな声を作った。

「また会えるよ。だから今は、ハルを行かせてやれ」

「いつ会えるの」

「それは……いつか」

美緒の目が細くなった。蒼が身をかがめた拍子に、鞄の外ポケットから切符と折り畳んだ契約書が滑り落ちた。

美緒が先に拾った。切符の印字と、契約書に書かれた都市の住所を見比べる。

「ちょっと本土へ行くだけなら、どうして帰りの切符がないの」

蒼は手を差し出したが、美緒は紙を渡さなかった。

「その鞄、服もいっぱい入ってる。蒼兄ちゃんも、黙っていなくなるんでしょう」

「今は俺の話じゃない」

「黙っていなくなる人に、また会えるなんて言われたくない」

宮本が蒼のそばへ来た。その顔から、いつもの軽い笑みが消えていた。

「浜口。どういうことだ」

蒼は答えられなかった。毛布を抱く美緒も、足元に伏せるハルも、彼の言葉を待っているように見えた。

出航五分前を告げる放送が流れた。

「面接を受けます」

蒼の声は、自分でも驚くほど乾いていた。

「都市の会社の採用面接です。受かったら、というより、結果がどうでも島には戻らないつもりでした。もう部屋も借りています。退職届も、鍵も、郵送すればいいと思ってました」

「引き継ぎはどうするつもりだった」

宮本の問いには怒りより、呆れがにじんでいた。そのことが蒼にはいっそう痛かった。

「宮本さんたちに任せるつもりでした。すみません」

港を渡る潮風が、ワイシャツの背を冷やした。蒼は逃げ道を探す代わりに、鞄の持ち手から手を離した。

「転職すると言って期待されて、失敗するのが怖かったんです。引き止められるのも、失敗して帰ってくるのも怖かった。帰る顔がなくなるくらいなら、最初から別れを言わなければいいと思ってました」

宮本は黙っている。久美も美緒も、蒼から目をそらさなかった。蒼は、相手の反応を見ないために、これまで曖昧な言葉ばかり選んできたのだと気づいた。

「でも、面接が終わったら必ず一度戻ります。採用でも不採用でも戻って、残っている仕事を引き継ぎます。部屋も自分で片づけて、それから改めて出ます」

「口だけじゃないだろうな」

「戻る日の切符を、着いたら買います。宮本さんにも連絡します」

宮本はすぐには許さなかった。ただ、低い声で「待ってる」と言った。

美緒は蒼を見上げた。

「ちゃんと、さよならを言うの」

「言う。行き先も、いつ出るかも言う」

美緒はしばらく考え、抱いていた毛布を床へ広げた。

「久美先生、鋏、持ってる?」

久美が荷物から作業用の鋏を取り出した。美緒は毛布の真ん中に刃を入れ、力を込めて切り進んだ。古い布はところどころ引っかかったが、やがて二つに分かれた。

「半分は、わたしが持ってる。半分は、ハルが持っていく」

美緒が片方をケージへ敷くと、ハルは立ち上がった。毛布の匂いを何度も確かめてから、自分でケージへ入り、丸くなった。

久美は美緒を抱き締め、それからケージを押して乗船口へ向かった。係員が締め切り直前の通路を開ける。蒼も鞄をつかみ、宮本へ頭を下げて、その最終便へ駆け込んだ。

翌日の午前、蒼は予定どおり都市の会社で面接を受けた。

前職を辞める理由と引き継ぎの状況を問われたとき、用意していた無難な答えは使わなかった。黙って島を去ろうとしたこと、港でそれを認め、戻って引き継ぐと約束したことを話した。

夕方、借りた部屋で採用の連絡を受けた。蒼は鞄から退職書類の封筒を取り出したが、封はしなかった。

転居作業の開始日を二週間延期すると、延期料が発生した。さらに島までの往復運賃を払い、翌朝の切符を買った。予定どおり消えるより高くついたが、その金額は、自分が口にした約束の重さに思えた。

島へ戻った日、蒼は郵便局で局長と宮本に転職のことを話し、無断同然で去ろうとしたことを謝った。受け持っていた仕事への不安も、何を残したままにしていたかも、一つずつ伝えた。

それから二週間、配達経路ごとの注意を書き出した。独り暮らしの高齢者へ声をかける日や、未処理の郵便物の事情を整理し、後任と宮本に引き継いだ。局の外でも、配達先を回って勤め先と出発日を告げた。

住まいは自分の手で片づけた。鍵を郵送するための封筒は捨て、退去の日に直接返すことにした。

美緒には都市の住所と、三か月後の連休に島へ帰る予定を書いた紙を渡した。

「なくさないでよ」

「なくしたら、郵便局で宮本さんに聞く」

「それなら絶対わかるね」

二週間後の朝、港には宮本や郵便局の仲間、配達先で顔を合わせてきた人々が集まった。

蒼の鞄は前と同じように大きかった。それでも今度は、中身を隠すための重さではなかった。

乗船口の脇で、美緒が毛布の半分を掲げていた。切り口のほつれた布が、潮風を受けて小さな旗のようにはためいた。

「蒼兄ちゃん、どこで働くの」

蒼は会社の名を、皆に聞こえる声で答えた。住所も告げ、三か月後の連休には帰ってくると約束した。

「今度は往復の切符?」

「帰る日が決まったら、先に買うよ」

出航の放送が流れた。蒼は一人ずつに頭を下げ、見送る人たちの顔を見てから船に乗った。

船が岸壁を離れても、蒼は甲板に立っていた。美緒は毛布を振り、宮本たちは手を上げている。蒼も腕を大きく振り返した。

最初の最終便に乗ったとき、蒼はもう島を出たつもりでいた。だが本当の旅立ちは、船に乗ることではなかった。残す相手の怒りや寂しさを受け止め、やり直す時間と費用を払い、それでも行くと口にしたときに始まったのだ。

港が小さくなり、毛布の半分が見えなくなるまで、蒼は甲板を離れなかった。

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