台本のない三分間

土曜日の午前、生放送開始十五分前。コミュニティFM局の小スタジオで、水野航平は床に台本を一枚ずつ並べていた。机に重ねれば済むものを、進行順がひと目でわかるようにと、足元へ帯のように延ばしている。

「佳代さん、最初の挨拶、もう一度お願いします」

「はい。商店街でクリーニング屋をやってます、佳代です。今日はうちの看板娘を――」

「そこは『看板犬のユキと参りました』です。娘だと人間のお嬢さんと誤解されますから」

佳代は膝の上のマルチーズを見下ろした。白い毛玉のようなユキは、誤解など気にする様子もなく、あくびをしている。リードの端は佳代の椅子につながれていた。

「その次に僕が『真っ白でかわいいですね』と言います。佳代さんは一拍置いて笑ってから、『洗いたてですから』と」

「クリーニング屋だけに?」

「その説明はしません。笑いが弱くなります」

「もう弱くなってる気がするけどねえ」

佳代が笑うと、航平は台本へ目を落とした。その笑い方も本番で出せればいいのだが、予定外の場所で笑われると尺がずれる。今日のペット特集を完璧に仕上げれば、自分が出演する三分間の番組枠を持てるかもしれないのだ。

見学に来ていた商店街事務局の黒田が、スタジオの時計を指した。

「商店街提供なんだから、明るく頼みますよ。きっちり盛り上がれば、水野さんの出演枠、局に推薦してもいい」

「任せてください。一秒単位で作ってあります」

航平が胸を張る横で、佳代は台本を持つ手を握り直した。

「一秒単位って聞くと、急に何もしゃべれなくなるね」

「書いてあるとおりで大丈夫です」

励ましたつもりだったが、佳代の表情はいっそう固くなった。

やがて生放送が始まった。挨拶も、曲紹介も、佳代の「洗いたてですから」も台本どおりだった。笑いだけが練習より半拍遅れたものの、航平は修正可能な誤差だと判断した。

「さて、犬のいる家庭では、来客もにぎやかに迎えるそうです。ここで、いつもの様子を再現してみましょう」

航平は効果音のボタンを押した。玄関チャイムが高らかに鳴った瞬間、ユキの耳が跳ね上がった。

「ワン! ワンワン!」

ユキは来客を捜して勢いよく立ち上がり、椅子の周囲を回った。リードが床の台本をすくい上げ、白い紙が一斉に舞う。航平の足に一枚、卓の下に二枚、佳代の椅子の向こうへ三枚飛び、進行順はきれいに消えた。

「ユキ、ここラジオ局! 誰も来てないってば」

佳代はユキを抱き寄せながら、こらえきれずに笑った。

「すみません。うちでは毎日これです」

それは台本にない言葉だった。だが、緊張していた声が急にやわらかくなり、スタジオの空気までほどけたように聞こえた。

航平は床の紙を見回した。次は餌の話だったか、散歩の話だったか。黙れば放送事故になると思ったとき、電話の着信ランプが点滅した。

「ここでリスナーさんからのお電話です」

相手の用件を確かめる余裕もなく、航平は回線を生放送へつないだ。

「もしもし。お名前をお願いします」

「志げです。あのね、いまの声、ユキちゃんでしょう?」

か細い声だったが、ユキの名を呼ぶ調子は弾んでいた。佳代は台本を拾いかけた姿勢で止まり、電話回線の表示を見つめた。

「志げさん? クリーニングの佳代です」

「ああ、やっぱり佳代さん。ユキちゃんの声、久しぶりに聞けてねえ。うれしくて電話しちゃった」

志げは、佳代が配達に来ると、ユキが玄関先で尻尾を振ることを話した。撫でるまで帰ろうとしないこと、帰り際には振り向くこと。佳代が「それはおやつを待ってるんですよ」と返すと、志げは少女のように笑った。

航平は時計を見た。台本を失ってから一分が過ぎている。それなのに放送は止まらず、むしろ用意した冗談よりずっと温かかった。

「志げさんは、最近もユキに会いましたか?」

予定外の出来事を番組に変えるのも腕だ。そう思った航平は、さらに質問を重ねた。

「いつも配達を頼まれているんですか。ユキに会うのが楽しみで?」

「ええ。でも、ここ何日かはね、会えてないの。足を痛めて、玄関まで行くのも難しくて」

「それは大変ですね。お一人でお住まいなんですか?」

佳代が航平を見た。その視線に気づきながら、航平は会話をつなぐことを優先した。

「一人ですよ。買い物にも出られなくてね。食べるものも、明日の朝の分があるかどうか」

着信ランプが続けて光った。ユキの声をきっかけに聞いていた近所の人たちが、食料を届ける、様子を見に行く、と申し出ているらしい。航平の胸に、番組が町を動かしているという高揚が広がった。

スタジオの外にいた黒田が、ガラス越しに一枚のメモを掲げた。

『商店街の人情企画になる。このまま続ければ出演枠を推薦する』

航平はメモと時計を交互に見た。台本のない三分間が、自分の三分間を連れてこようとしていた。

「志げさん、お近くの方が助けたいと言っています。お住まいの場所を――」

「うちはね、商店街の角を曲がって、青い屋根の――」

「住所は流しちゃだめ」

佳代がマイクから外れて小声で言った。電話口から聞こえる志げの声に反応し、ユキも短く鳴いた。

航平の指が卓の上で止まった。青い屋根、足を痛めた一人暮らし、食料がない。親切な人だけが聞いているとは限らない。志げの困り事を面白い展開として掘り下げたのは、自分だった。

黒田がもう一度、メモを強く指でたたいた。

航平は息を吸い、志げの言葉を遮った。

「志げさん、ありがとうございます。ここから先は放送ではなく、私たちが直接お話を伺います。リスナーの皆さんも、志げさんを捜したり、個人情報を問い合わせたりしないでください」

音楽のボタンを押し、通話を放送回線から外す。続いて、企画用の録音を停止した。赤い表示が消えると、スタジオは急に小さな部屋へ戻った。

「志げさん、もう放送には流れていません。足は立てないほど痛みますか。いま必要なものだけ、ゆっくり教えてください」

番組終了後、航平たちは事務室へ移った。志げとの電話は非公開のまま続け、けがの状態と食料の残りを確認した。

佳代は店の顧客台帳で住所と連絡先を確かめた。

「志げさん、市の福祉窓口に連絡してもいい? 職員さんが来るまでは、私が食べるものを持っていくから」

「悪いわねえ」

「配達ですから。ユキの出張料金は、撫でるので払ってください」

電話の向こうで志げが笑った。本人の同意を得て福祉窓口へ連絡すると、職員が訪問することになった。それまで佳代が食料を届け、ユキも一緒に連れていくことが決まった。

黒田は腕を組み、停止した録音機器を見た。

「いい話じゃないですか。ここまで録れた分を編集して、商店街が救ったという企画にしましょう。住所を消せば使える」

「使いません」

「水野さんの出演枠もかかってるんですよ」

「だから使わないんです。志げさんが困っていたことは、宣伝の材料じゃありません」

航平は局への非公開申請を出し、録音データを番組にも宣伝にも使用しないと決めた。黒田の推薦が消えるかもしれないと思うと胃のあたりが重くなったが、録音停止の表示を見直しても、後悔はなかった。

一週間後の午後、志げが佳代とユキに付き添われて局を訪れた。福祉職員の支援を受け、食事や通院の手配も整ったという。足をかばいながらではあったが、志げは自分で会議スペースの椅子まで歩いた。

「この子がどうしても先に入るって」

佳代の足元で、ユキが志げを見上げて尻尾を振っていた。

「水野さん、助けてくれてありがとう。ラジオでしゃべりすぎちゃったねえ」

「いえ。しゃべらせすぎたのは僕です。放送を盛り上げることしか考えず、志げさんを危ない目に遭わせるところでした。すみませんでした」

航平が頭を下げると、志げは少し困ったようにユキを撫でた。

黒田が咳払いをした。

「録音を使わなくても、匿名の美談として紹介する方法はあります。それなら推薦を残してもいい。商店街の印象も上がりますし」

航平は首を横に振った。

「録音は非公開のままにします。出演枠も辞退します。その代わり、僕に割り当てられるはずだった三分間を、相談電話の試行時間にさせてください。放送には乗せず、必要なら支援先へつなぐ窓口です」

誰かの声を届けるのが放送の仕事だと思っていた。けれど、誰にも聞かせないことで守れる声もある。局は航平の提案を認め、電話受付席に一枚だけ対応メモが置かれた。

窓口初日、入口のチャイムが鳴った。遊びに来ていたユキが、案の定、勢いよく立ち上がる。

「ワン! ワンワン!」

「ユキ、今日は散らす台本がないよ」

佳代が笑う。机の上にあるのは、支援先と確認事項を書いた一枚だけだった。

そのとき、相談電話が鳴り始めた。航平はもう慌てず、受話器を取った。

「お電話ありがとうございます。まず最初にお伝えします。ここでのお話は、放送しません」

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