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月曜日の午前十時、真壁怜の所属事務所が入るビルの会議室で、大庭修は報酬額をもう一度見た。通常の案件なら三本分に近い。二か月分滞納している事務所代を払っても、少し残る額だった。
制作責任者の佐伯美奈は、散歩企画の撮影中に起きた事故だと説明した。真壁の飼うポメラニアンのモコが、リードの金具が外れた拍子に車道へ飛び出し、それを避けた自転車の女性が転倒して手首を骨折したという。
「認めるのは、犬を制御できなかったことです。被害者への謝罪と治療費の負担も入れます。ただ、事故直前のここは不要なので落としてください」
佐伯が編集指示書の時刻を指で囲んだ。削除範囲は三秒だった。真壁は会議室の端で腕を組み、テーブルを見たまま口を開かなかった。
公開予定は同日午後八時、完成データの納品は午後六時。元映像の入った記録媒体と謝罪コメントの収録データを受け取りながら、修は間に合うと答えた。映像の内容を決めるのは依頼主で、自分は指示された形へ整えるだけだと、いつもの言葉を胸の中で繰り返した。
正午過ぎ、修は借りている編集事務所へ戻った。窓の外には向かいのビルの壁しか見えず、机には事務所代の督促状が伏せてあった。修は記録媒体を接続し、素材を編集ソフトへ読み込んだ。
指定時刻の前後を低速で再生すると、画面の手前に真壁とモコ、二車線の道路を挟んだ向こう側に撮影助手の相田航がいた。相田は小さな袋からおやつを出してモコの目の高さに掲げ、空いた手を二度、自分のほうへ振った。
真壁が道路の向こうを見た。次の瞬間、その手元でリードがたるみ、モコが相田へ向かって走り出した。白茶色の小さな体が車道へ入った直後、自転車が急にハンドルを切り、画面の外側へ倒れた。
修は三秒を選択し、指示どおり削除した。前後を詰めると、金具付近の画面が一度揺れた直後にモコが飛び出し、偶然リードが外れたようにつながった。音も不自然には途切れず、知らずに見れば編集点には気づかない。
それでも、切り口の直前に残った真壁の視線が気になった。真壁は犬ではなく、道路の向こうの相田を見ている。修は仮編集を保存したが、完成データの書き出しには進まなかった。
午後二時、休憩のつもりで事故について検索すると、川瀬遥という被害者の名前が出てきた。手首を骨折して仕事を休んでいるという記事の下には、真壁のファンによる書き込みが並んでいた。犬が見える道で速度を落とさなかった、前を見ていなかったのではないか、と川瀬の安全確認不足を責める言葉が多かった。
川瀬の代理人は、憶測による中傷を控えるよう求め、事故映像に関する情報は法律事務所へ寄せてほしいと告知していた。修はその画面を閉じ、元映像へ戻った。
音声波形に合わせて一コマずつ送る。袋の音、相田の手招き、真壁の視線、緩むリード、モコの足、ブレーキ音、転倒音。どれも一続きで、間に偶然を差し込める隙間はなかった。
三秒を切れば、真壁側が犬を走らせた行為だけが消える。残るのは、飛び出した犬と、避けきれなかった川瀬だった。修は佐伯へ、編集内容について確認したいとメッセージを送った。
午後四時、オンライン通話に応じた佐伯へ、修は元映像の該当箇所を示した。三秒を削除したまま偶発的なリード外れとして説明すれば、事故原因を誤認させると伝えた。
「相田さんはおやつを見せて、犬を呼んでいます。真壁さんも向こうを見てからリードを緩めている。この構成では出せません」
「それは撮影上の合図です。事故との因果を判断するのは編集者の仕事ではありません」
佐伯の声は平坦だった。謝罪動画は法的責任を確定する文書ではなく、三秒は説明に不要な撮影過程だと言い、契約書の守秘義務条項を画面に表示した。午後六時までに納品しなければ、公開延期による損害と違約金を請求するとも告げた。
修は口頭ではなく、削除の指示を文面でもらいたいと頼んだ。通話が切れて数分後、佐伯からメールが届いた。指定された三秒を削除し、リード金具が偶発的に外れた事故として構成すること、と明記されていた。
時計は午後五時に近づいていた。修は完成データの書き出し画面を開いたが、実行のボタンを押せなかった。以前、映像の権利処理に関する仕事で名刺をもらった弁護士、三浦志保へ電話をかけた。
午後六時、三浦の法律事務所で、修は契約書と指示メールだけを見せ、映像の内容を説明した。三浦は、これは私的な事故であり、修が当然に公益通報者として保護されるとは限らないと最初に釘を刺した。
「元映像を被害者や報道機関へ直接送れば、守秘義務違反を主張されます。受け渡し方によっては、データを加工したのではないかという争いまで生じます。善意だけで流さないでください」
「では、返して削除するしかないんですか」
「訴訟が予想される証拠を上書きしたり、消したりするのも避けるべきです。まず、あなたが受け取った状態と、その後の操作を確認できるように残します」
修は事務所へ戻り、三浦の指示を受けながら作業した。元の記録媒体を書き込み不能の状態で封印し、受領日時とファイル名、容量、作成日時を記録した。照合用の複製を作り、それぞれのハッシュ値を算出して、編集プロジェクトの操作履歴と佐伯のメールも別に保存した。
午後七時半、佐伯から納品確認の連絡が続けて届いた。修は、内容について法的助言を受けており、現状では納品できないとだけ返信した。事故映像の中身も、相談先も書かなかった。
三浦は川瀬側の告知に記載されていた代理人、井上徹へ連絡した。映像そのものは渡さず、未編集データが存在すること、その保管者が修であること、返却と削除を求められる可能性があることだけを伝えた。
午後八時、公開予定時刻が過ぎた。修の画面には、三秒を切った仮編集が停止したまま残っていた。修はそれを完成品として書き出さず、納品もしなかった。
翌日、井上は裁判所へ事故映像の証拠保全を申し立てた。映像が真壁側の管理する素材であり、公開前の編集や消去によって元の状態が失われるおそれがあると説明した。
その間にも、佐伯は修へ記録媒体の即時返却と、すべての複製データの削除を求めた。以後の連絡窓口となった三浦は、正式な手続きへの対応中であることを伝え、修へ直接連絡しないよう求めた。
数日後、修は裁判所の手続きに従い、元の記録媒体、照合用の複製、ハッシュ値の記録、編集履歴、佐伯の指示メールを提出した。どの時刻からどの時刻までを削除するよう求められ、削除後には映像がどうつながるかも説明した。
切られていない映像では、相田がおやつを見せて手招きし、真壁がリードを緩め、モコが車道へ入り、川瀬が転倒するまでが連続していた。修が映像を外部へ公開せず、改変前の状態を維持していた経緯も記録された。三秒は、誰かの告発材料として流出するのではなく、事故の因果を検討する証拠として確保された。
数週間後、真壁の事務所は修との契約を解除した。納期違反と守秘義務違反を理由に損害賠償を請求する通知も届いた。三浦は、修が映像を公開していないこと、誤認を生む編集への異議を文書で残したこと、裁判所の手続きに従って提出したことを反論の材料にした。
仕事を一つ失った影響はすぐに出た。修は広い事務所を引き払い、滞納分を分割で支払う約束をした。三か月後に移った部屋は以前の半分ほどで、机と編集用のモニターを置けば壁まで手が届いた。
新しい案件を始める前に、修は三浦の確認を受けて契約書を作り直した。事故や権利侵害の因果を誤認させる改変には異議を申し立てること、原本を保全する方法、紛争時の連絡先と手順を条項に加えた。
編集ソフトのタイムラインには、別の仕事の穏やかな映像が並んでいた。切る操作は一瞬で済み、切った跡も滑らかに消せる。それでも、誰の都合で現実の前後を切ったのかという責任まで、編集点の向こうへ捨てることはできない。
修は新しい契約書を保存し、次の素材を再生した。狭い部屋には、冷却ファンの音だけが残った。以前より軽くなったものは何もなかったが、もう自分の責任を依頼主の指示の陰へ切り取らずに済んだ。
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