床に残る匂い

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ペット同伴フロアの開業初日、予約表にはほとんど空きがなかった。稲葉景子は端末に並ぶ宿泊者名を見ながら、藤田支配人の言葉を思い返していた。

「この稼働が続けば、正式な管理職の話も進められます」

五十二歳まで客室係を続けてきた景子にとって、現場経験を生かせる役目は願ってもないものだった。委託費や客室単価は自分の領分ではない。それでも、整った部屋を確実に売ることならできると思っていた。

午後、最初の宿泊客である大橋真紀を客室へ案内した。大橋がキャリーバッグを開けると、白いマルチーズのルルが顔を出した。ところが床へ降ろそうとした途端、四肢を突っ張って大橋の腕にしがみついた。

「どうしたの。いつもなら、すぐ探検するのに」

大橋がそっと床へ降ろすと、ルルは前脚を交互に浮かせ、二度くしゃみをした。次の瞬間にはキャリーバッグの上へ逃げ戻り、床を見下ろしたまま動かなくなった。

ベッドには皺一つなく、床にも毛や染みは見えない。だが景子が膝をつくと、甘さの奥に刺すような消臭剤の匂いがあった。

「申し訳ございません。お部屋を点検いたしますので、いったんラウンジでお待ちいただけますか」

景子は大橋とルルを案内し直し、清掃済みの札が掛かった部屋へ戻った。

白い布で床を水拭きすると、湿った布から消臭剤の匂いが強く立ち上った。清掃用具庫で希釈表と薬剤の補充量を照合すると、使用量は規定を明らかに上回っていた。

さらに清掃表には「換気三十分」と記されていたが、カードキーの入退室記録では、清掃終了から施錠まで十分しかない。景子は窓側の換気設備を回し、床を何度も水拭きした。

大橋には状態を隠さず説明し、別の準備済み客室へ移ってもらった。ルルを再び不安にさせたことを謝ると、大橋は頷いたが、表情から疑念は消えなかった。

用具庫へ戻った景子は、委託作業員の村上澄江に記録を見せた。

「濃度も換気時間も規定と違います。何があったんですか」

村上は周囲を確かめ、低い声で答えた。

「勤務が終わったら、みんなで話します」

その日の夕方、地下の従業員休憩室に委託作業員たちが集まった。村上は一枚の割り当て表を机に置いた。ペットの毛の除去、床洗浄、寝具交換、消毒、点検まで、一室二十八分と記されていた。

「この時間で規定どおりにやるのは無理です。毛を取って床を洗えば、寝具交換の途中で次の部屋へ行く時間になります」

別の作業員が、換気を待てば作業数が足りなくなり、残業分は委託会社の持ち出しになると話した。汚れを落とし切る時間がない日は、濃い薬剤で匂いを覆った。清掃表には、契約を守った形にするため三十分と書いていたという。

「規定違反です。支配人に報告します」

景子が言うと、村上は目を伏せずに答えた。

「報告してください。でも、私たち何人かが処分されて終わったら、二十八分は残ります。次の人も同じことをします」

景子は手元の清掃表を見た。偽りを書いた責任は消えない。しかし、その偽りがなければ回らない時間割を残して、個人だけを替えても意味がなかった。

「本当は何分必要なのか、出しましょう。誰かの頑張りではなく、工程として」

翌日から三日間、景子は作業員全員に工程別の時間を記録してもらった。毛を除去し、床を洗い、寝具を替え、消毒し、最後の点検まで省かずに行う。景子も各室を回り、開始と終了を確認した。

平均は四十五分だった。その後、薬剤の成分と湿気を外へ出すために、誰も作業をしない三十分が必要だった。

景子は記録を持って経理室を訪ねた。清掃委託費や料金に口を出すのは初めてで、森田亮の机の前に立つと、自分の役目を越えているという感覚がまだ残っていた。

「一室に追加で十七分、それとは別に換気三十分です。この時間を原価にできますか」

森田は最初、換気中の部屋を単なる未販売室として見ていた。だが景子と村上が工程を説明すると、追加人件費、時間帯ごとの販売可能室数、初日の客室移動や返金に要した費用を順に表へ入れた。

「満室を維持して、問題が出るたびに部屋を替えて返金する。この費用は予測しにくいですね」

森田は二つの試算を並べた。

「販売室数を抑え、清掃費を料金へ加えた方が、少なくとも損失の幅は読めます」

一室に必要な作業時間、人件費、換気中に売れない室数、苦情対応費が一枚に収まった。景子はその原価表を受け取った。料金は自分の領域外だと思っていたが、現場の時間を料金から外したままでは、品質も守れないのだと分かった。

原価表が完成した翌日、景子は大橋へ正式に謝罪した。そのうえで、今後の予約客にも事情を知らせ、ホテルの会議室からオンライン説明会を開いた。

画面に原価表を映し、清掃には四十五分、換気には三十分が必要だと説明した。その時間を保証すれば一日に販売できる客室数は減る。そこで一か月の試験営業を行い、料金には清掃費を分けて明示したいと伝えた。

「開業したばかりで値上げですか」

「犬に害があったと決まったわけではないでしょう」

反対の声も上がり、予約を取り消すと告げる客もいた。景子は引き留めず、意見を記録した。

大橋は画面越しにルルを膝へ抱き、静かに言った。

「安く泊まるために、犬が嫌がったことを見過ごす方が困ります。何に費用を払うのか分かるなら、私は選べます。ただ、換気した時間は利用者にも見えるようにしてください」

ほかの予約客からも、清掃終了時刻と販売可能時刻を表示するなら新料金を受け入れるという回答が出た。全員の賛成ではなかった。それでも、清掃時間を品質として買いたいという需要は、数字とともに残った。

開業から一週間後、ホテルの大会議室で協議が開かれた。藤田支配人の向かいには景子と森田だけでなく、工程記録に実名で署名した村上たちが座った。大橋も利用者の立場からオンラインで参加した。

「委託会社の管理者から改善報告を出させればよいのではありませんか」

藤田が言うと、景子は原価表を机の中央へ置いた。

「薬剤濃度を上げたのは現場です。でも、二十八分で割り当てた部屋数を変えなければ、別の形で不足が出ます。満室率だけを守ると、三十分の換気時間が消えます。その費用は作業員の無償労働か、利用者への返金や客室移動へ移るだけです」

村上は、毛の除去を削ればアレルギーの原因が残り、床洗浄を急げば薬剤も汚れも残ると、自分の言葉で説明した。誰かをかばうためではなく、どの工程を削れば何が起きるかを一つずつ述べた。

画面の中で大橋が言った。

「料金表に清掃費と換気保証を明記してください。利用者も、安さだけを求めた結果を知らずにいたくありません」

「しかし、販売室数を減らせば、開業時の満室目標を達成できません」

藤田はなおも稼働率を問題にした。森田は、高稼働を維持した場合の苦情対応費と、販売室数を抑えた場合の収支予測を並べた。

「満室でも、移動と返金が続けば利益は残りません。新料金なら減収の範囲を管理できます。一か月で実績を比較すべきです」

藤田は長く原価表を見た後、販売室数を抑え、換気時間を保証する試験営業を承認した。清掃費は宿泊料金の内訳に記され、清掃終了から三十分を経るまでは販売可能にしないことも決まった。

一か月後の朝、大橋がルルを連れて再訪した。新料金になって予約数は少し減ったが、換気保証に納得した客は残っていた。客室移動や匂いに関する苦情対応費は、試験営業前より下がっていた。

大橋がルルを床へ降ろした。ルルは鼻を近づけて匂いを嗅いだ後、前脚を浮かせることなく窓辺まで歩いた。景子はその小さな足音を聞き、ようやく息を吐いた。

管理職への登用は、組織上の肩書きを整理するという理由で棚上げされた。落胆がないわけではなかったが、景子はホテル、委託会社、客室係による定例協議の代表を引き受けた。

その日の会議で、景子は清掃表を開いた。清掃終了から販売可能になるまで、三十分の空白がある。

「ここは、何もしていない時間ではありません。匂いも湿気も残さず、次の利用者を迎えるための工程です」

森田はその時間を原価表に残し、村上は現場の記録を重ね、藤田は満室率だけでなく苦情費と再予約率も確認した。床に残らないものを守るために、誰か一人の献身ではなく、働く側と利用する側と管理する側が、時間と費用を分け合う仕組みが動き始めていた。

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