地図にない三分

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全面公開予定日の十日前、月曜日の午後。会議室の壁に映された試験地区の地図には、青い道路網が毛細血管のように広がっていた。道路は隙間なく接続され、集配所から届け先まで、一本の赤い線が最短距離を貫いている。

「自治体向け配送ルート機能は、羽鳥を責任者にする」

事業部長の黒川が言った。二十九歳の真紀にとって、初めて任される事業単位の責任だった。

「予定日に全面公開できれば、契約達成分の報奨金も出る。ここまで来て止める理由はないな」

真紀は画面を見たままうなずいた。距離と所要時間を同じ式で計算し、最も短い経路を全員に示す。経験や勘に左右されない一本の線は、誰に対しても公平だと考えていた。

「試験ログでも到着時刻は改善しています。現行仕様のまま完遂します」

道路上の細かな段差や路面の状態は、データ項目に含まれていなかった。だが画面の線は途切れず、公開を妨げる問題はないように見えた。真紀は納期と報奨金を、自分の返事に結びつけた。

翌朝六時四十分、真紀はミニチュアダックスのコムギを連れて、自宅近くの交差点を歩いていた。乾いた風が、歩道の端にたまった砂を薄く動かしていた。

交差点を渡った先で、コムギが止まった。近道へ上がる縁石が一段だけ高くなっている。真紀が軽くリードを引いても、短い脚は動かなかった。

「行けるでしょう」

もう一度促すと、コムギは顔をそむけ、交差点から離れる方へ歩き出した。その先には、建物を半周する緩い坂があった。真紀は腕時計の計測を始め、コムギについていった。

坂を回る経路は、近道より三分長かった。スマートフォンの地図では、どちらも歩行可能な道路として同じ色で描かれている。しかし推奨線は縁石のある近道だけを通っていた。

真紀は戻って縁石の写真を撮り、高さを測った。三分は気まぐれではなく、コムギの身体が選んだ時間なのかもしれなかった。

火曜日の夕方から木曜日の朝まで、真紀は出勤前後の散歩を試験地区へ延ばした。コムギが止まるたびに時刻を記録し、足元を撮影した。

高い縁石では前脚を上げる前に止まった。階段では一段目に鼻先を寄せ、真紀に抱き上げられるのを待った。踏むとわずかに揺れる金属板では中央を避け、腹が柵に触れそうなほど端へ寄った。

一方で、同じ距離の乾いた平坦路なら迷わず進んだ。真紀は写真とともに、段差の高さ、勾配、路面の種類を地図上の地点へ紐づけていった。最初の縁石だけなら偶然で済ませられたが、回避には一貫性があった。

木曜日の午前九時、商店街裏の連絡通路で、コムギはまた金属板の手前に止まった。真紀が記録画面を開いたとき、背後から車輪の音が近づき、すぐそばで途切れた。

荷物を積んだ台車を押していた配送員が、金属板を見ていた。名札には野田修平とある。

「ここ、通らないんですか」

真紀が尋ねると、野田は台車の前輪をつま先で示した。

「今日は小さい車輪なんで。板の隙間に取られるんです。これだけ積んでると、はまったら一人じゃ抜けません」

野田は通路の奥にある短い坂にも目を向けた。荷物が重い日は、距離が短くても押し上げられないという。反対に、荷物が軽い日や大きな車輪の台車なら、この金属板も坂も通ることがある。

「道ごとに、通れるか通れないか決まっているわけではないんですね」

「こっちの条件で変わります。でもアプリは、いつも同じ道を出すでしょう」

野田は遠回りになる路地を指した。推奨経路を外れると、管理画面に逸脱として残る。到着が遅れれば、その理由を入力する欄もなく、配送員の判断が遅延として扱われるのだという。

金属板の前には、短い脚の犬と、小さな車輪の台車が並んでいた。真紀の地図では、どちらも立ち止まる理由を持っていなかった。

木曜日の午後、真紀は会社へ戻ると、許可を取って試験運用ログを開いた。推奨経路から外れた地点を地図上に重ねる。逸脱の印は、縁石、階段、急坂、金属板の周辺に偏って現れた。

夜になってから野田に電話をかけ、一件ずつ状況を確かめた。同じ区間でも、徒歩なら近道を選び、空の台車なら坂を上り、重量物を積んだ小径車輪の台車なら迂回していた。ログに並ぶ数字は同じ「逸脱」でも、その中身は別々だった。

真紀は道路データに、段差、勾配、路面という項目を追加した。利用者側には、徒歩か台車か、車輪の大きさ、荷物の重さ、避けたい負担を選ぶ欄を置いた。条件を変えるたび、画面上の線が分かれたり重なったりした。

一本だけだった正解が、複数の候補になる。真紀はそれを設計の後退のように感じ、しばらく画面から手を離した。それでも、現行仕様のまま全面公開できるとは、もう言えなかった。

金曜日の午前、自治体との定例会議を前に、真紀は社内会議室で検証結果を報告した。黒川は資料をめくり終えると、赤く印を付けた区間を指で囲んだ。

「問題があるなら、そこを一律で通行禁止に設定すればいい。予定どおり公開できる」

「それでは、徒歩の配送員まで遠回りになります」

真紀は試作画面を映した。金属板は重量物を積んだ小径車輪には避けるべき場所だが、徒歩の利用者には短い経路だった。急坂も、空の台車なら使える場合がある。

「道路を通行可能か不可能かだけで分けると、別の不便を作ります。最短経路を一つだけ示す方式をやめます。段差、勾配、路面、荷物の条件ごとに複数の経路を提示します」

真紀は、検証済み地区だけで限定版を公開し、未検証地区をいったん対象外にする段階計画を示した。黒川は腕を組み、窓のない壁を見た。

「延期すれば報奨金は消える。違約条件が適用される可能性もある」

「分かっています。責任者として交渉します」

しばらくして、黒川は資料を閉じた。

「なら、自分で説明してこい。責任者は替えない」

同日午後、自治体庁舎の会議室には、真紀と黒川、担当者の佐伯美和、現場代表として呼ばれた野田が向かい合った。佐伯は住民サービスの開始予定がすでに告知されていることを挙げ、予定どおりの全面公開を求めた。

「変更による混乱も避けたいんです。延期には明確な根拠が必要です」

真紀は現行版と試作版を並べて表示した。同じ集配所と届け先を指定すると、現行版には一本の線しか出ない。試作版では、徒歩の野田には縁石を越える近道が、重量物を積んだ小径車輪の台車には緩い坂が表示された。

「現行版の最短は、条件の違いを配送員の遅れとして記録します。限定版では、迂回を選んだ理由も残せます」

野田は試作画面を操作し、荷物の重さを選んだ。

「遠回りした理由を入れられるなら、現場でも使えます。今は、無理に通るか、怠けたように記録されるかのどちらかです」

真紀は検証済み地区だけを先に公開し、三週間後に対象を広げる案を提示した。自社側の納期延長と、それに伴う違約条件も受け入れると伝えた。

佐伯は二つの画面を見比べた。予定どおり公開することと、検証不足による事故を避けることの間で、沈黙が長くなった。

「限定地区での段階公開を認めます。三週間後に検証結果を提出してください」

会議室を出たあと、黒川から報奨金の対象外になると正式に告げられた。真紀はうなずいた。失った額は具体的だったが、残すべき経路も、もう具体的に見えていた。

三週間後の朝、最初の縁石から緩い坂へ続く試験地区で、限定版の検証会が開かれた。真紀の開発チームと佐伯が見守るなか、野田はアプリで「重量物」「小径車輪」を選択した。

画面には高い縁石を避ける坂道が候補として現れた。追加時間は三分。その横に、段差負担の回避という理由が表示され、配送記録にも同じ内容が残った。

条件を徒歩へ変えると、縁石を越える近道も再び現れた。どちらか一方が誤りとして消されることはなかった。

「これなら、現場で決めたことが地図に戻りますね」

野田の言葉を聞き、真紀は画面上の二本の線を見た。一本に絞らないことは、計算を放棄することではなかった。異なる身体や荷物があると認めた場所から、計算を始め直すことだった。

検証が終わると、コムギが縁石の前で足を止めた。やがていつものように向きを変え、緩い坂へ歩き出した。

真紀はリードを引かなかった。乾いた朝の道を、三分長い線に沿ってついていった。その遠回りはもう、地図の外にはなかった。

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