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強風で直行便が欠航したと知ったとき、藤森亜希は本土の港で、劇団員と大道具と衣装の一覧を三つに分けた。三十六歳の舞台監督である彼女には、落胆する時間もなかった。別港から出る代替船の席を押さえ、積載できない装置を切り捨て、到着後の島内バスへ人数を連絡する。離島演劇祭の開幕は翌日で、一本でも乗り継ぎを逃せば公演そのものが消えた。
「犬の場面に必要なものは全部持っていく」
座長兼演出家の黒田征司はそう言い、誘導用の低いパネルと餌台を荷物の列へ戻した。物語の最後、行方不明になった人物の手紙を白い犬がくわえて現れる。それが審査用企画書の見せ場であり、賞金を得るための切り札だと黒田は繰り返していた。
代替船の客室は、強風を受けるたびに大きく傾いた。エンジン音の下で、マルチーズのモモは野口美奈の足元に置かれたクレートへ入り、丸い背をさらに小さくしていた。
「今のうちに確認するぞ」
黒田が封筒を取り出すと、美奈はモモをクレートから出した。黒田が合図をし、美奈が封筒を口元へ寄せる。モモは一度だけ匂いを嗅いだが、顔をそむけた。
「もうやめましょう。揺れていますし、さっきから何も食べていません」
「本番で初めて失敗するほうが残酷だ。もう一度」
二度目、モモは後ずさった。三度目には美奈の腕を抜け、クレートの奥へ縮こまった。亜希にも、それが単なる失敗ではないことは分かっていた。それでも、今ここで黒田と衝突すれば、辛うじてつないだ行程まで崩れる気がした。
「稽古はここまでにしましょう。会場に着いたら静かな場所で休ませます」
亜希は封筒を黒田から受け取り、調整を終えたような口調で言った。出演を取りやめるとは言わなかった。到着後に回復すればよいと、判断を未来へ押し送った。
船を降りた一行は、深夜の連絡バスに装置と衣装を積み直した。窓の外には街灯の少ない島道が続き、モモは美奈の膝の上で目を閉じていた。亜希は翌日の搬入表を書き換えながら、クレートの奥へ逃げた白い背中を思い出さないようにした。
演劇祭当日の午前、会場の楽屋をできるだけ静かにし、亜希は照明を落とした。モモは水を飲み、美奈のそばでしばらく伏せていた。本番四時間前、黒田が確認稽古のために封筒を持って入ってきた。
合図を出しても、モモは立たなかった。黒田が封筒を見せると、モモはすぐに身を起こしたが、近づく代わりに壁際まで後退した。白い毛が壁に触れても、なお逃げる場所を探していた。
「体調だけじゃありません」
美奈はモモと封筒の間に立った。
「この子は手紙を嫌がっています。舞台にも出したくないんです。昨日からずっと、そう言っています」
亜希は進行表の最終幕を見た。犬の登場を外せば、直前の台詞も、照明のきっかけも、俳優の立ち位置も変わる。それでも代案は作れる。
「俳優が手紙を運ぶ形にします。難しければ手紙の内容を音声で流す。以前の稽古映像に置き換える方法もあります」
「犬が来るから、最後の手紙に意味が出るんだ」
黒田はすべて退けた。
「企画書を読んでいないのか。犬の登場が見せ場だ。賞金を取れなければ、次の稽古場代も払えない」
亜希は反論を飲み込み、演劇祭の制作担当者に規定を確かめることにした。休ませれば出られるかもしれないという見込みは、もう捨てざるを得なかった。
本番四十分前、舞台袖の進行卓で、山内理沙は申請書と規定を見比べた。出演動物の安全を理由に上演を止めることはない。しかし物語の鍵を運ぶ主体を変更すれば、申請内容との重大な相違になるという。
「上演はできます。ただし審査対象からは外れます」
山内の説明に、黒田は即座に首を振った。
「それでは来た意味がない。賞金を失えば劇団は終わる。藤森、予定どおり進行しろ。野口にはモモを袖へ連れてこさせろ」
亜希はまた、双方が受け入れられる線を探しかけた。出番を短くする、封筒を軽くする、舞台入口まで抱いて運ぶ。だが、どれもモモが出るという前提だけは動かさない案だった。
「船の中で、あれだけ逃げたことも記録すべきでした」
美奈が低い声で言った。
「私はやめたいと言いました。でも座長に言われたら、従うしかないと思った。亜希さんなら止めてくれると思っていました」
亜希の手元で進行表がかすかに鳴った。自分は止めたつもりだった。船内稽古を切り上げ、水を用意し、代案も出した。しかしそのどれもが、黒田の命令を残したまま負担を薄める調整にすぎなかった。
開演五分前、客席のざわめきが袖まで届いた。黒田は美奈からリードを取り、モモを舞台入口へ連れていった。誘導パネルの先には餌台があり、その向こうに照明の落ちた舞台が開いていた。
「行け」
モモは入口で伏せた。黒田がリードを引くと後ずさりし、身をひねって亜希の靴の陰へ隠れた。白い体は床に張りつき、呼吸だけが速かった。
「進行停止」
亜希はインカムへ告げた。開演ベルを待機させ、音響と照明のきっかけを止める。
「美奈さん、モモを楽屋へ。今日は出しません」
「勝手に決めるな」
黒田が言ったが、亜希は返事をせず、誘導パネルの留め具を外した。佐伯亮が反対側を支え、二人でパネルを袖奥へ運ぶ。亜希は餌台も撤去し、犬が所定位置へ進むことを前提にした道を舞台から消した。
「佐伯さん、空の首輪を両手で持って登場してください。手紙は客席後方から、観客に手渡しで舞台までつないでもらいます。最後は美奈さんが受け取る」
佐伯は短くうなずいた。
「山内さん、開演を少し遅らせて、通路側のお客様へ協力を頼めますか」
「できます。ただし、審査対象外になります」
「承知しています」
亜希は集まった俳優とスタッフを見た。
「変更の責任は私が負います。犬の出ない最終幕にします」
「そんな公演は中止だ」
黒田の命令に、動く者はいなかった。俳優は新しい立ち位置を確認し、音響はきっかけを書き換え、佐伯は首輪を受け取った。亜希が配った手書きの進行表を中心に、舞台は別の形で動き始めた。
開演後、モモは美奈が整えた暗い楽屋へ戻った。水を飲むと、クレートの外に伏せた。扉の向こうから台詞と足音が響いても、もう呼び出されることはなかった。
最終幕、佐伯が空の首輪を両手に載せて舞台へ現れた。客席後方では、山内が一通の手紙を通路側の観客へ渡した。それは知らない者の手から次の手へ、ためらいながら、しかし途切れずに運ばれていった。
舞台上の美奈が最後に手紙を受け取った。彼女は空の首輪を見つめ、予定されていた呼びかけの代わりに言った。
「帰らないものを、帰ってくる形に押し込めてはいけない。ここにいないことを、いないまま受け取ります」
俳優たちは誰も舞台入口を見なかった。犬の不在を欠落として埋めず、そこにある意思として残したまま、照明がゆっくり落ちた。
拍手は暗転後も続いた。終演直後、山内は進行卓のそばで亜希へ正式に告げた。
「規定どおり、この公演は審査対象外です」
「分かりました」
賞金の可能性が消えた重さはあった。それでも亜希は、楽屋で眠り始めたモモを見て、その損失を犬に払わせずに済んだことだけは確かだと思った。
終演から一時間後、亜希は全劇団員を会場の稽古室へ集めた。欠航後に組んだ強行日程、船内で黒田が反復稽古を命じたこと、モモが顔をそむけてクレートへ逃げたこと、会場で代替案が退けられたことを、時系列に沿って話した。
「私は異変を知っていました。それでも、到着後に休ませればいいと先送りしました。今日の変更だけでなく、そこまで出演を止めなかった責任も私にあります」
美奈も、飼い主として中止を求めたのに、黒田から従うよう迫られたと証言した。黒田は立ち上がり、賞金のために必要な判断だった、公演を守るには誰かが決めなければならない、と主張した。
「誰か一人が決め続けた結果、異議が安全判断として扱われなくなった」
運営会の書記である佐伯が劇団規約を机に置いた。構成員の臨時総会により、役職者の権限を停止できる条項を読み上げる。動物への強制と、安全管理上の異議を封じたことを理由に採決が行われ、黒田の制作権限停止が決まった。
亜希は公演責任者を引き受けた。次回公演までに、動物出演を原則としない代替演出、安全上の中止基準、移動時の休息時間、匿名を含む異議申立ての手順を整備すると約束した。判断を一人の善意に預けず、誰の拒絶も予定や賞金の下へ押し込めないための仕組みにする。
劇団は賞金を失ったが、解散はしなかった。亜希は空になった進行表の最終幕に、新しい決定事項を書き込んだ。声を上げないことも、言葉を持たないことも、同意として扱わない。その一行から、次の公演の準備が始まった。
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