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放送予定日の二週間前、月曜の午前、久世航は編集会議室で十年前の新聞記事を見下ろしていた。見出しは〈安西澄江、弟子を置き去り〉。自分が書いた断定の下に、工房の分裂と弟子たちの離散を記した資料が重ねられていた。
「安西澄江と、出ていった弟子たち。三十分で追え」
編集長の江崎隆一は企画書を航の前へ滑らせた。話題になる番組を作れば、次の人事で正規採用を推薦するという。
「過去を訂正する機会にもなる。おまえにしかできない特集だ」
航は記事の訂正より、師弟が十年ぶりに和解する筋を考えた。対立が深いほど、放送の振幅は大きくなる。契約更新を繰り返してきた四十四歳の自分に、次の機会があるとは思えなかった。
翌日の午後、航は安西澄江の工房を訪ねた。棚には乾燥中の器が並び、老いたミニチュアシュナウザーが作業台の下から航を見ていた。
「対面の取材は受けません」
澄江は椅子を勧めもしなかった。十年前も説明はしたが、航は都合の悪い箇所を削り、弟子を見捨てたという結論だけを残したのだと告げた。
「では、訂正を含めて番組で――」
「あなたの訂正を聞くために、声を渡すのではありません」
澄江は条件を書いた紙を作業台に置いた。澄江と元弟子の高瀬真紀、宮原修が、それぞれ三分以内の音声を録る。一切編集せず、再生順も進行方法も三人で決めることが条件だった。
「無編集では番組になりません。聞く側に伝わるよう構成するのが、こちらの責任です」
「番組にするために渡すのではなく、声を返してもらうために渡します」
足元の犬が短く鼻を鳴らした。航は編集できない音声に価値があるのか疑ったが、ここで断れば企画そのものが消える。条件を了承し、録音形式と送付先だけを説明した。
一週間後の午後、高瀬と宮原から届いたデータを携え、航は再び工房にいた。放送に使える品質か確かめるため、左右の作業台に一台ずつスピーカーを置いた。
左から高瀬の声が流れた。工房を離れた自分への迷いを語ったあと、声がわずかにやわらいだ。
「サビ、まだ覚えてる?」
作業台の下で眠っていた犬が頭を上げた。白く濁った目であたりを探し、爪を鳴らして左のスピーカーへ駆け寄った。
次に右から宮原の声がした。「おい、サビ」と十年前と変わらない調子で呼ばれると、犬は身を翻して右へ移った。接続確認のため高瀬と宮原の音源を交互に再生するたび、サビは二つのスピーカーの間を往復した。
やがて息が上がり、途中で脚がもつれた。澄江はサビを抱き止め、背を撫でた。
「もういいでしょう。この子には、声がどこから来るか分からない」
澄江は、高瀬も宮原も互いに会うつもりはなく、自分も再会を求めてはいないと念を押した。だが航には、離れた声を一つにつなげれば、実際の再会以上に劇的なものを作れると思えた。
同じ日の深夜、航は局の編集ブースで三人の音声を複製した。技術確認用として預かったデータだったが、試作するだけなら使用ではない、と自分に言い聞かせた。
高瀬の「今も許せない」の直後に、澄江の「守れなかったことは申し訳なく思う」を置いた。宮原が息を詰まらせる音を長く残し、その前にあった、自分たちも航の記事を事実確認の代わりに使ったという言葉を切った。現在の仕事や、十年間作り続けた器についての話も削った。
波形を詰めるほど、三人は互いに答えているように聞こえた。改変ではない。地域に問題を伝えるための構成であり、聞かれなければ声は存在しないのと同じだ。航はそう考え、試作版に〈十年越しの和解〉という仮題を付けた。
翌朝、江崎は編集ブースで試作版を聞き終えると、ヘッドホンを外した。
「これだよ。非難があって、涙があって、最後に師匠の謝罪が来る。これなら採用を押せる」
この構成で放送できるよう仕上げろ、と江崎は命じた。航が返事をする前に、端末へ共同メールが届いた。局の仮番組表に航が進行役として載ったのを見た澄江、高瀬、宮原からだった。
完成版を放送前に三人が確認すること。航を進行役から外すこと。無編集を守り、三人が指定した順序で流すこと。一つでも違反すれば、全員が音声使用の同意を撤回すると記されていた。
「試作版のことは言うな」
廊下に出た江崎は声を落とした。音源が撤回されれば番組自体が成立しないことは、彼にも分かっていた。
「確認用だと言って同意を取れ。放送してしまえば、内容がよかったかどうかで判断される」
同日の夜、航は収録スタジオに一人で入った。江崎が評価した試作版を完成番組に見せるため、進行用のナレーションを録る必要があった。
録音を始めると、ガラスの向こうに赤い灯がついた。航は原稿を読み上げた。
「師弟は十年の時を越え、互いの痛みを語り始めた――」
ヘッドホンには、高瀬の非難、宮原の嗚咽、澄江の謝罪だけが順に流れた。それぞれの前後を知っている航には、滑らかなつながりが、むしろ切断面の列に聞こえた。
机の端には十年前の記事が置かれていた。当時、澄江は弟子を守るため仕事を断った経緯を説明していたが、航は複雑すぎるとして削り、〈見捨てた〉という短い断定に置き換えた。公益のために分かりやすくしたのだと、長く考えてきた。
前回は告発の筋に、今回は和解の筋に、同じ人々の言葉を押し込めている。結論が反対なら正せると思っていたが、声の持ち主を置き去りにする点は何も変わらなかった。
航は録音を止めた。赤い灯は消えたが、その残像がスタジオの窓に残った。完成したナレーションに保存名を付けず、画面を閉じた。
翌朝、航は編集長室で試作版の編集プロジェクトを開いた。江崎の前で書き出しデータを削除し、続けて素材を並べたタイムラインも消した。
「正規採用の推薦は辞退します」
江崎はしばらく画面を見てから、番組を潰すつもりかと尋ねた。
「条件を破れば、三人とも音源を撤回します。代替企画を作る時間はありません。この枠を維持するなら、三人の順序で無編集の音源を流し、進行原稿も三人に決めてもらうしかない」
「それで三十分もつのか。番組として弱すぎる」
「番組として強くする権利を、三人は渡していません」
江崎は机を指で二度たたいた。やがて、技術担当だけは局側で置くことを条件に受け入れた。
航は澄江たちへ、無断で試作編集を行い、放送しようとした事実をメールで知らせた。謝罪し、複製データの削除と、音源管理、順序、進行決定の権限を返すことを記した。三人から許すという返事はなく、数日後、本人たちが確認した進行表だけが局へ届いた。
一週間後の放送当日、航は調整室にも収録スタジオにも入らず、廊下に立っていた。扉の上の赤い灯がつき、モニタースピーカーから番組が始まった。
三人が選んだ最初の音声は、宮原のものだった。別の土地で陶芸を続けてきた年月を語ったあと、彼は十年前の記事を事実だと決めつけ、工房を去る口実にした自分の責任を話した。長い沈黙も切られずに流れた。
次に高瀬が、自分の迷いが航の記事によって断定へ変えられたと語った。澄江への怒りは残っているが、それを誰かの用意した和解の前段にはされたくない、と続けた。
最後に澄江の声が流れた。弟子を守れなかった事実を認め、それは航の記事の誤りによって消えるものでも、航の謝罪によって結論づけられるものでもないと話した。
「これは再会の約束ではありません。許すための番組でもありません。私たちが、自分の言葉を置く順序を決めただけです」
録音の末尾には、サビの爪が床を擦る音と、かすかな寝息が入っていた。呼び声はなく、誰かが帰ってくる気配もなかった。
航は訂正も謝罪も差し挟まなかった。廊下のスピーカーが無音になり、ガラス越しに赤い灯が消えるまで立っていた。
江崎が調整室から出てくると、航は局の入館証を差し出した。何か言われるのを待たず、誰にも返事を求めずに廊下を歩いた。
過去との和解は、自分の訂正を相手に聞かせることではない。奪った発言権を返し、その声が自分を批判する順序さえ、持ち主に委ねることから始まる。航は振り返らず、灯の消えた局を去った。
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