消防点検まで、あと一週間だった。
元校長の黒田誠一は、管理室の机に巡回表を広げ、赤鉛筆で廊下の欄に丸をつけた。退職後にこのマンションの管理員となって三年、点検を一度も事故なく終えることが、自分の有能さを示す成績表のように思えていた。
夕方の巡回に出ると、二階の廊下に子ども用の靴下が落ちていた。三階では片方だけの軍手を見つけ、誠一はそれらを火ばさみで拾い上げた。
「共用廊下は落とし物置き場ではありません」
誰に言うともなくつぶやく。若い住人は共同生活の規律を軽く考えている、と誠一は決めていた。
中庭の洗濯場へ通じる共用防火扉の前で、三〇五号室の佐伯美里に呼び止められた。夜勤へ向かうところらしく、肩には大きな鞄がかかっていた。
「黒田さん、この扉、閉めても戻ってきてしまうんです。錠もかかりにくくて」
美里が扉を引くと、いったん閉じたはずの扉が、鈍い音を立てて数センチ開いた。誠一は腕時計を見てから、回収した靴下と軍手を持ち直した。
「まず、廊下に物を落とさないよう気をつけてください。扉のせいにしても、避難経路への放置は認められません」
「いえ、落とし物の話ではなくて――」
「点検前ですから、皆さんにも協力していただかないと困ります」
注意に口答えされたような気がして、誠一の声は校長時代の朝礼よりも硬くなった。美里は何か言いかけたが、小さく頭を下げて出勤していった。
誠一はエントランスに落とし物の回収箱を置き、そのあと中庭まで見回った。物干し台の脇を確かめた際、腰につけていた作業用手袋の片方が落ちたが、気づかないまま管理室へ戻った。
翌朝、夜勤を終えた美里は、三〇五号室の玄関内に散歩用のリードを置いた。扉を閉めたつもりだったが、疲れた手ではラッチが最後までかかっていなかった。
美里が眠ったあと、チワワの豆はリードの輪をくわえた。後ずさりするとリードが扉に当たり、玄関が細く開いた。豆は鼻先を差し込み、するりと廊下へ出た。
リードを引きずる豆は、中庭へ通じる防火扉の隙間に鼻を押しつけた。小さな頭が通るほど開くと、豆は物干し台の下へ走り、誠一の手袋を見つけた。
手袋には土と汗の匂いが染みていた。豆は満足そうにくわえ、廊下を通って三〇五号室の前まで運び、開いたままの玄関へ戻った。
間もなく巡回してきた誠一は、自分の手袋を見つけて足を止めた。拾い上げ、三〇五号室の扉を見つめるうちに、頬が熱くなった。
「わざわざ私の物を、ここへ置くとは」
注意への当てつけに違いない。そう受け取った誠一は、その場で巡回表の裏に新しい掲示の文面を書き始めた。
それから三日間、マンションの壁は誠一の掲示でにぎやかになった。「避難経路への物品放置厳禁」「落とし物を放置した場合は部屋番号を確認します」。エントランスにも、階段脇にも、三〇五号室の近くにも、同じ角張った文字が並んだ。
住人たちの挨拶は短くなった。誠一の巡回が終わるのを待ってごみを出す者も現れ、廊下で顔を合わせても、皆すぐ自室へ引っ込んだ。
それでも落とし物は止まらなかった。朝には靴下、夕方にはハンカチが一つずつ現れ、ときには回収箱に入れたはずの軍手まで消えた。
美里が自宅前にあった靴下を管理室へ届けようとしたときも、誠一は受け取る前に眉を寄せた。
「佐伯さん、また三〇五号室の前です。置かないようお願いしたはずですが」
「これは拾っただけです。それと、あの扉が――」
「言い訳より、今後の対策をお願いします」
美里は口を閉じた。その足元で、豆だけが回収箱を熱心に見上げ、鼻をひくひくさせていた。
消防点検の三日前の朝、誠一は三〇五号室の前で、端の浮いた掲示を貼り直していた。紙を押さえる音で目を覚ました美里が玄関を開けると、その足元から豆が飛び出した。
「豆!」
リードを引きずった豆は、廊下を一目散に走った。誠一は反射的に追いかけたが、豆が右へ曲がれば左へ回り込み、左へ跳ねれば右へ手を伸ばしてしまう。掲示の束が腕から滑り、「物品放置厳禁」の紙が廊下いっぱいに散った。
「止まりなさい。いや、待ちなさい!」
豆はもちろん待たなかった。中庭前の防火扉に鼻を押しつけ、慣れた様子で隙間を広げると、その向こうへ消えた。
追いついた誠一の前で、豆は物干し台の下に落ちていた靴下をくわえた。そして来た道を戻り、廊下の途中で靴下をぽとりと落とした。
そこは、誠一が何度も落とし物を見つけた場所だった。床に散った掲示と、靴下と、得意そうに胸を張る豆を見比べ、誠一は声を失った。
美里が豆を抱き上げた。豆の短い足はまだ空中を走っていた。
「玄関をきちんと閉めなかったのは、私の不注意です。すみません。でも、この防火扉のことは、前にもお伝えしました」
静かな声だった。それだけに、誠一には言い逃れのできない報告書のように聞こえた。
誠一が改めて扉を閉めると、扉の縁が枠に当たり、数センチ手前で止まった。錠を回しても、かんぬきは受け金具に入らず、乾いた音を立てるだけだった。
中庭では、風が洗濯物を揺らしていた。留め方の甘い靴下やハンカチが物干し台の下へ落ち、豆はそこから人の匂いが残る柔らかい物だけを選んでいたのだ。
誠一は、三〇五号室の前にあった自分の手袋を思い出した。あれも誰かの挑戦ではなく、豆の収集品だった。
管理室へ戻り、誠一は修繕業者に電話をかけた。点検前に扉のゆがみと錠を直すには、緊急修理として予算を組み替える必要があるという。
机の上には、誠一が管理組合へ出した花壇整備案があった。色のそろった花を植えれば、点検の日にも建物が立派に見える。そのために小修繕予算を確保していたが、扉の修理と両方はできなかった。
花壇を選べば、外からの見栄えは守れる。扉を選べば、美里の報告を退けた自分の誤りまで認めることになる。
誠一は長く息を吐き、花壇整備案に取り下げの線を引いた。続いて防火扉と錠の緊急修理申請を書き、管理組合へ提出した。
その日の夕方、誠一は廊下を回り、自分で貼った掲示を一枚ずつ外した。粘着テープの跡まで拭き取ると、壁は驚くほど広く、静かに見えた。
エントランスに住人たちを集めた誠一は、両手を体の脇へそろえた。校長時代なら注意を聞かせる姿勢だったが、その日は自分が頭を下げた。
「落とし物は皆さんのだらしなさが原因だと、決めつけていました。佐伯さんから扉の不具合を聞いたのに、確認もしませんでした。申し訳ありません」
住人たちはすぐには答えなかった。誠一は頭を上げず、沈黙も罰のように受け止めずに待った。
やがて美里が、「私も玄関を閉め損ねました」と言った。豆がまた出ないよう、玄関には犬用ゲートをつけると約束した。
それをきっかけに、住人たちも口を開いた。中庭の洗濯物には留め具を増やし、廊下と回収箱は皆で片づけようという話になった。誠一が指図する前に軍手や靴下は持ち主へ戻り、避難経路から物がなくなった。
点検前日、修理された防火扉は、手を離すと静かに閉じた。誠一が錠を回すと、かんぬきは受け金具へ確実に収まった。その音は、どんな注意書きより頼もしく聞こえた。
消防点検当日、点検員はエントランスから各階の廊下を歩き、避難経路に放置物がないことを確かめた。中庭前では防火扉を何度か開閉し、錠も確認した。
「問題ありません。合格です」
誠一は胸を張りかけたが、先に住人たちへ向き直った。
「皆さんのおかげです。ありがとうございました」
美里の腕に抱かれた豆だけは、点検にも挨拶にも関心がなかった。きれいに整理された回収箱に一組だけ残る軍手を、名残惜しそうに見つめていた。
誠一は軍手を取り上げ、豆の鼻先が届かない高い棚へ移した。
「落とし物係は、本日で廃止だ」
豆は不満そうに小さく鳴き、住人たちは笑った。誠一もつられて笑いながら、規則を掲げるだけでは人は動かず、困りごとに耳を傾け、間違いを直す者がいてこそ、共同生活は安全になるのだと思った。
物語を、アプリで。
「犬と人の物語」はiPhone・Androidで読めます。アプリでできることや読書画面をご覧いただいてから、お使いのストアへ進めます。

