朝六時の配達表

七月下旬の午後、田所勇作は自転車と保冷箱の仕様書を介護事業者の机に広げた。印刷工場が閉鎖されて三か月、退職金から買った商売道具だった。坂の多い団地へ食料を運ぶ仕事を軌道に乗せ、自分にはまだ現場を任される力があると証明したかった。

担当の佐伯は、契約書の二か所を指で押さえた。

「十世帯すべて、正午までです。それと、保冷箱の中は定めた温度を超えないこと。夏場ですから、両方とも必ず守ってください」

「工程管理なら三十年以上やってきました。一人でできます」

勇作は迷わず答えた。全件分の報酬を手帳の端で計算すると、失業給付が切れた後の暮らしにも見通しが立つ。誰かに分ければ、その分だけ自分の稼ぎも、自分の価値も減るように思えた。

試走の日程を決め、十軒を一本につないだ経路表を鞄へしまった。佐伯がもう一度「無理はしないでください」と言ったが、勇作は「無理のない計画です」と返した。

試走当日の午前八時半、勇作は出発前に柴犬の鉄を散歩へ連れ出した。短い日課を済ませてから、予定どおり自転車で団地へ向かうつもりだった。

鉄は家並みの影を歩いている間は、いつもと変わらなかった。ところが日なたの舗装路へ一歩出た途端、右の前脚を浮かせ、次には左を浮かせた。そのまま身を引き、日陰へ戻ろうとした。

「どうした、鉄」

勇作がしゃがんで路面へ手を当てると、数秒も触れていられなかった。まだ朝なのに、舗装は掌を押し返すように熱かった。勇作は鉄を抱き上げ、急いで家へ戻った。

冷房を強めた部屋で水を飲ませると、鉄はやがて落ち着いて伏せた。脚にも異常は残っていない。勇作は経路表を見下ろし、正午近くに通る予定の道を指でなぞった。

午前九時半、鉄を冷房の効いた部屋に残し、勇作は一人で試走へ出た。契約時に想定した量の保冷剤を箱へ入れ、内部には温度計を仕込んだ。路面用の温度計と記録表もハンドル脇の袋に収めた。

日なたと日陰で止まり、そのたびに路面温度を測った。各棟へ着く時刻も記したが、日が高くなるにつれて数字は悪くなった。照り返しの強い道では息が詰まり、長い坂へ入ると、重い保冷箱に自転車を引き戻されるようだった。

団地の後半へ着く前に、箱の温度計が契約上の上限を越えた。勇作は保冷剤の位置を直したが、数字は下がらない。管理室前で足を止めたとき、壁際に冷蔵ロッカーが並んでいるのを見つけたものの、いまの契約に利用の取り決めはなかった。

最後の棟へ着いたときには、正午を過ぎていた。温度も時刻も基準外だった。勇作は汗でにじんだ記録表を見つめ、根性や経験で縮められる遅れではないと認めざるを得なかった。

午後一時半、自宅へ戻った勇作は、足元で休む鉄のそばから佐伯へ電話をかけた。測った温度と各棟の到着時刻を読み上げ、単独の経路では保冷基準を越えたと報告した。

「では、保冷剤を増やしてください。開始日は予定どおりでお願いします」

電話を切った勇作は、追加する保冷剤と同じ重さの荷物を箱へ入れた。家の近くの坂を短く往復しただけで速度はさらに落ち、試走時より時間がかかることが分かった。

勇作は佐伯へかけ直した。

「保冷剤を増やせば温度は保てるかもしれません。ただ、その重量では正午に間に合いません」

「それでも、条件は両方守っていただかないと困ります」

勇作は契約を解除してください、と言いかけた。だが、鉄が前脚へ鼻先を載せているのが目に入り、言葉を止めた。熱い路面から退いた鉄を抱いて戻った自分が、なぜ仕事では戻るか進むかの二つしか考えないのか。

「明日までに、別の案を持っていきます」

夕方、勇作は携帯電話に久保の番号を表示した。印刷工場で同じ現場にいた男である。発信を取り消しては表示し直し、三度目にようやく通話ボタンを押した。

「久保、頼みがある。一人では無理だった」

口に出した途端、胸の内側が冷えるようだった。勇作は試走に失敗したこと、温度と時刻の両方を守れなかったことを、言い訳せずに話した。

しばらくして家へ来た久保は、机に並べられた記録を順に読んだ。

「てっきり田所さんは、全部一人でやって、全部自分の仕事にしたいんだと思ってたよ」

「そう思っていた。だが、それでは十軒に届ける約束を守れない。手伝ってくれないか」

久保は苦笑してから、記録表を指でたたいた。

「条件がこれだけ分かってるなら、手伝える。曖昧に半分じゃなく、担当を決めよう」

二人は経路を五軒ずつに分けた。早朝の涼しいうちに二台で商品を団地まで運び、管理室の冷蔵ロッカーへ収めてから戸別配達を始めれば、一人が十軒分の重量を載せて坂を上る必要はない。

勇作が管理室へ問い合わせると、職員は、介護事業者の了承があれば早朝搬入を受け入れられると答えた。勇作は配達表の担当欄を二つに分け、初めて自分の名の横へ久保の名を書いた。

翌日午前十時、勇作と久保は介護事業者の事務所を訪れた。団地管理室の職員も同席し、佐伯の前へ試走記録と新しい工程表を並べた。

勇作は日なたと日陰の路面温度、区間ごとの所要時間、箱内温度の推移を説明した。さらに、保冷剤を増やした場合に生じる遅れも、短い再試走の結果として示した。

「単独担当では基準を守れません。そこを隠したまま始めるつもりはありません」

勇作はそう明言し、早朝に商品を冷蔵ロッカーへ搬入し、二人で五世帯ずつ届ける案を差し出した。管理室職員は受け入れ可能な時間帯と、ロッカーへの搬入時刻を記録する方法を説明した。

佐伯は書類を見比べた後、腕を組んだ。

「正式な変更の前に、一週間試してください。全件の温度と受け渡し時刻を記録すること。それで基準内に収まるなら、条件変更を検討します」

試行初日の午前五時四十五分、勇作と久保は集荷所で十世帯分の商品と宛先を照合した。まだ空気が涼しいうちに、それぞれの自転車へ五軒分ずつ積み、団地管理室を目指した。

管理室職員の立ち会いで商品を世帯別に冷蔵ロッカーへ収め、搬入時刻と温度を記録した。そこから二本の配達線に分かれ、勇作は東側の五軒、久保は西側の五軒へ向かった。

途中、勇作は久保の進み具合が気になり、何度も携帯電話へ手を伸ばした。自分の担当を早く終えて、久保の荷物まで引き取る考えが頭をもたげたが、配達表には責任の範囲が明記されている。勇作は自分の五軒へ集中した。

久保の担当する一軒で受け取りが遅れそうになったと連絡が入ると、二人は電話で受け渡し時刻を調整した。勇作が代わりに抱え込むことはせず、久保がその世帯への配達を完了するまで、記録上の変更だけを確実に共有した。

午前十一時半、十軒すべての受け渡しが終わった。商品の温度は全件で基準内だった。勇作は二人分の記録を一枚にそろえ、分けたからといって責任が薄まったのではなく、守れる時刻と温度が増えたのだと実感した。

それから一週間後の午前十一時過ぎ、最終日の配達を終えた二人は団地管理室にいた。勇作は一週間分の温度と到着時刻を集計し、佐伯へ渡した。

十世帯すべてが毎日基準内で、終了時刻にも単独試走より余裕があった。管理室職員も、早朝搬入とロッカーの利用に問題はなかったと報告した。

「二人体制と管理室受け渡しを、正式な契約条件として認めます」

佐伯の言葉に、勇作は深く息を吐いた。報酬は久保と分けるため、当初の計算より自分の取り分は減る。それでも十軒を減らす必要はなく、交代で休める日も作れる。

新しい契約書の担当者欄に、勇作は田所勇作と書いた。その隣へ久保の名が記されるのを見ても、自分の価値が削られたとは感じなかった。二人の名でなければ守れない約束が、そこに残った。

正式契約後の翌朝、午前六時。勇作は配達前に鉄を散歩へ連れ出し、建物の影が続く道を選んだ。日なたへ出る前には路面へ手を当て、まだ熱くないことを確かめた。

家へ戻ると、玄関前には久保が自転車で来ていた。勇作は二人分の名前、五軒ずつの住所、受け渡し時刻を書いた配達表を取り出し、保冷箱の透明ポケットへ差し込んだ。

「鉄、留守番を頼む」

鉄が日陰の玄関から二人を見送った。勇作は久保と並んでペダルを踏み、朝の道へこぎ出した。

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