生中継の三日前、午後。地方ラジオ局の会議室で、高瀬麻衣は企画書を伏せ、向かいに座る杉浦聡を見た。四十八歳の聡の足元には、十歳の雄のラブラドール・レトリーバー、ルークが伏せている。
「引退前最後の通勤を、普段どおり歩いていただきたいんです。私たちは後ろから音を拾います」
聡はルークの背に手を置いた。「時間が押しても、この犬を急がせないでください。安全と、いつもどおりの歩行が最優先です」
「約束します」
麻衣は即答した。番組は打ち切り寸前で、この中継の反響がスポンサー契約を左右する。それでも、企画書の最終頁に記した「感動の再会」という文字は、聡に見せなかった。
会議のあと、麻衣は制作デスクからスポンサー企業の広報担当、河原浩二へ電話をかけた。
「終点には野口さんが待機します。ルークを幼犬期に育てた方です。八年ぶりの再会を山場にします」
河原は満足そうに息を吐いた。「そこまで放送できれば、契約継続を社内で押せます。普通に歩くだけでは弱いですから」
続いて麻衣は野口久美に連絡した。六十二歳の野口は、ルークが盲導犬になる前の一年を育てたパピーウォーカーだった。
「杉浦さんも楽しみにしていらっしゃるんでしょうね」
「当日は、自然に迎えてください。詳しい段取りはこちらで整えます」
麻衣は了承を得ているとは言わず、否定もしなかった。受話器を置くと、企画書の「安全最優先」という一行と「再会・八時四分」という一行が、同じ紙の上で離れて見えた。
生中継当日の午前七時四十五分、麻衣は携帯中継機とマイクを持ち、聡の自宅前に立った。冷えた朝の空気の中で、ルークのハーネスの金具が小さく鳴った。
「では、最後の通勤、出発です」
聡が合図を出すと、ルークは静かに歩き始めた。白杖が歩道の端を触れる音、爪が舗装を打つ音、車道を流れる車の音が、そのまま電波に乗った。
放置自転車の前でルークがわずかに左へ寄る。聡も同じ幅だけ進路を変えた。
「今のは、避けたんですか」
「ええ。八年間、こうして教えてもらっています。私が命令して、ルークが全部従うわけではありません」
麻衣は頷きながら時計を見た。予定どおりなら、勤務先前への到着は八時二分。野口はすでに近くで待機していた。
イヤホンに着信音が入り、河原の声がした。「時間は大丈夫ですか。再会まで入りますね」
「予定どおりです」
そう答えた直後、ルークが段差の手前で止まった。聡が足先で位置を確かめ、短く礼を言う。穏やかな歩行の一つ一つが放送になっているのに、麻衣には、そのすべてが終点までの残り時間に見え始めていた。
午前七時五十三分、勤務先手前の交差点に着いた。前日の下見では広かった横断歩道脇に工事柵が並び、作業車が通路へ張り出している。
青信号を知らせる音が鳴った。しかし、ルークは縁石の手前で足を止めた。
「ゴー」
聡が穏やかに促しても、ルークは動かなかった。ハーネスを持つ聡の手が、犬の制止を確かめるように静止する。
金属を打つ作業音と、近くでアイドリングするエンジン音が重なった。聡は作業員の位置を尋ねたが、呼びかけへの返事は音に紛れた。
信号音が途切れた。麻衣は何か説明しようとして口を開き、閉じた。次の青でもルークは進まず、放送には信号音とエンジン音だけが流れた。
午前七時五十六分。麻衣は時計を見てから、工事柵の隙間を指した。
「私が前を歩きます。幅はあります。ここを抜ければ、予定の道に戻れます」
「ルークは行けないと判断しています」
「でも、こちらで安全を確認すれば」
聡は麻衣の声へ顔を向けた。「ここで制止を無視して渡ったら、盲導犬は人を目的地へ急がせる道具だと放送してしまいます。止まる判断も、この犬の仕事です」
麻衣はマイクを握り直した。三日前に交わした約束が、初めて具体的な重さを持った。
「一つ先の横断歩道へ迂回します」と聡は言った。「時間はかかりますが、そちらを探します」
再び河原から電話が入った。「再会がなければ契約継続は難しいですよ。中継車へ戻ってください。予定原稿と音楽でつなげます。移動部分は切りましょう」
切る、という言葉の向こうで、ルークの呼吸が聞こえた。歩行を放送する企画だったはずなのに、麻衣は歩行が予定を外れた瞬間、それを邪魔な空白に変えようとしていた。
午前七時五十八分、三人は交差点から迂回路へ入る角にいた。麻衣はマイクを下げ、回線から少し離れた。
「杉浦さん、話していないことがあります」
聡は黙って待った。ルークも足元で止まっている。
「終点に、野口久美さんを呼んでいます。ルークを幼犬の頃に育てた方です。再会を生放送するつもりでした。あなたに知らせずに用意しました。申し訳ありません」
しばらくして、聡が息を吐いた。
「今日は、ルークの仕事の日です。私の知らない別れを、勝手に終点へ置かないでください」
「中止します」
麻衣はその場で野口へ電話をかけた。事情を説明すると、野口は残念そうに黙ったあと、静かに答えた。
「分かりました。働いている最中のルークを混乱させたくありません。私は帰ります。会うなら、正式に引退してからにします」
電話を切ると、今度は河原が低い声で告げた。「契約条件に反します。番組を残せなくなっても、責任を取れますか」
麻衣は、道の先を向いて立つ聡とルークを見た。「予定原稿には切り替えません。中継を続けます」
午前八時。三人は迂回路を歩き始めた。麻衣は音楽もナレーションもかぶせず、白杖と爪と靴音を追った。
遠回りの歩道には、配送車が停まり、店先の看板が張り出していた。ルークはそのたびに速度を落とし、安全な幅を探した。沈黙が長くなるほど、麻衣の中には言葉を足したい衝動が湧いたが、マイクを向けたまま待った。
足音が何十歩も続いたあと、麻衣は尋ねた。
「どうして、ルークの制止をそこまで信じられるんですか」
「従わないでくれたことが、何度もあるからです」
聡は歩調を崩さずに答えた。
「私が進めと言っても、危なければ止まる。私の判断より、ルークが拾った危険のほうが正しいことがある。その判断に、何度も命を預けてきました」
ルークの爪が一度止まり、すぐに別の方向へ向きを変えた。聡も逆らわずについていく。
「引退は寂しいですか」
「寂しいですよ。でも、感謝して泣けば終わる一場面ではありません。明日からルークのいない道を覚え直して、新しい犬と歩幅を作り直す。その日々の始まりです」
麻衣は「八年間の絆」という予定原稿の見出しを思い出した。その言葉では、止まることも、覚え直すことも、こぼれ落ちていた。
午前八時十分、二人と一頭は遅れて勤務先前へ着いた。麻衣は到着を煽らず、聡がルークのハーネスを外すのを待った。
留め具が外れ、金具が触れ合った。仕事を終えたルークが身震いをし、首輪が鳴った。
「以上、杉浦さんとルークの、最後の通勤でした」
麻衣はそれだけを言って中継を終えた。
二週間後の夕方、麻衣は番組最終回のスタジオにいた。河原の会社はスポンサーを撤退し、番組の終了が決まっていた。
ルークは正式な手続きを経て引退した。聡はすでに、新しい盲導犬との共同訓練に入っている。野口との再会がその後どうなったかを、麻衣は放送の材料として尋ねなかった。
赤いランプが点灯し、麻衣は最後の原稿を開いた。そこには、聡から届いた短い言葉だけが印刷されていた。
「杉浦さんから便りが届きました。『今は新しい歩幅を覚えている』。そう書かれていました」
麻衣は、無断の演出を中止した自分を美談にはしなかった。番組を守れなかったことも、正しい決断をしたという形には整えなかった。
最後に流したのは、工事中の横断歩道で録った音だった。青信号を知らせる音が鳴り、ルークは止まる。聡が作業音と車の位置を確かめ、信号を一度見送る。
やがて迂回路へ向かう靴音と、白杖と、爪の音が始まった。麻衣は編集せず、言葉も音楽も重ねなかった。
遠ざかる信号音の中で、二人と一頭の足音が少しずつそろっていく。その速度を奪わないまま、麻衣は放送を閉じた。
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